本2冊

 最近自分で読書という習慣が著しく後退してきているのを感じます。若いこと、休みといえば半日は本屋で過ごした私。何のカテゴリーでも好きになり、本を 持ち歩くことが日課であり、いたるところで本を読んでいました。本の場合は多くとも10冊ぐらいが体力と勘案した場合の限界でした。ですから、読書は自分 が何を読みたいのかを事前に設定して持ち歩いていました。
なぜ、最近読書をしなくなったのだろうと思い見れば、やはりインターネットという巨大な 虚実世界が情報を提供してくれることでしょうか。私が以前持ち歩いていた本から長時間稼動が出来るノートPCとイーモバイルという仕組みで何処でもイン ターネットを実現できる環境を入手したことが読書という習慣を遠ざけてしまったと思っています。情報から情報へ果てしないリンクの世界に刹那的時間を過ご しているように思えます。つまりじっくりと考察するという本のよさを忘れてしまっています。8月17日に、東北大学の先生から著書を頂戴したのです。いま だ、その本を完読していないのです。以前の私には考えられないことです。
私は読破力の低下を感じてしまいます。そして、読書はもう出来ないのではないかとも考えてしまいました。新潟市の中心部に住んでいながら、会社と自宅とを往復するだけで、この2ケ月間商店街を歩くことも、食事をすることも考えてもいませんでした。
なんの脈絡も無く、読書が苦手となってしまっている自分について考えているうちに、商店街の本屋に出かけました。最もそれは、娘にfedoraというコンピューターOSのDVDを送ってやるために中心部に日曜でもやっている郵便局に出かけたついでに立ち寄ったのです。
相 変わらず、コンピュータ関連の本はネット情報の後追いでしかなく、興味のある歴史書については既に読破しているものばかりでした。コンピュータ関連の棚の そばにある平積みの新書の中に私の好きな題材がありました。講談社現代新書の「カラー版 ハッブル望遠鏡宇宙のなぞに挑む」という新書です。ハッブル望遠 鏡がどの様なものかはご存知だと思います。この望遠鏡からの写真は勿論ネットで取得は出来ますが、カテゴライズされコメントされている写真集として、さほ ど読破力を必要とせず写真を「すっごい」と言いながら見る絵本としてなら今でも読めるという気軽さから購入しました。
この本の隣に「ヒトの眼が切 り取った部分は人工的なものであり、ヒトの認識が見出した関係の多くは妄想でしかない。 私達は見ようと思うものしか見ることが出来ない」という黄色く幅 広の帯のかかった同社の新書が眼に入りました。これは裏面であり、表面からの本のタイトルは「世界は分けてもわからない」というものでした。なんと魅力的 なコメントでしょう。私が欲しがっていた内容がその中に詰まっているように感じました。勿論、それも妄想でしょう。この福岡伸一氏の新書を迷わず購入しま した。喫茶店に行き、福岡先生の本をあっという間に三分の一ほど読んでしまいました。軽快なリズム間と謎解きににた知識と肩の力をぬきながら楽しむだけに 文字を追い続けながら、「自分が選んだ本ならまだ好きなサイトをブラウズするように読める」という風に感じることができました。
喫茶店内では編曲されたBeatlesのFool On the Hill が流れています。なんと似つかわしい。

新潟の日食

午前10時48分、一瞬雲間から見えた太陽を事務所から撮影しました。チョットだけかけていますね。

新潟は朝から雨、5時に朝、出勤前の軽いサイクリングをしようとしてだめだった。7時半に出勤して、メールをチェックし、4通ばかりの返信をして、珈琲を一杯のむ。まあ、いつもの会社の始まりです。大体私は会社の始まりより1時間半ほど前に出勤するのですが、そのかわり、帰りは一番早い。6時になると直ぐに帰ります。悪石島は雨らしい。皆既日食を期待した天文ファンの方々には本当に気の毒でした。

卑弥呼という古代の女王はあの時代では世界的に珍しく太陽をまつっていました。古代天文学によれば、卑弥呼の没当時において皆既日食があったそうです。それにより、崇める神である太陽の力の衰退と対立する勢力にみられて、卑弥呼は殺されたのではないかと言っている説もありますね。

水鳥バン(鷭・学名Gallinula chloropus)

水かきのない水鳥であるバンを新潟の「じゅんさい池」公園で撮影しました。バンが飛ぶ姿は殆んど見ることがないと土地の人もいっていました。幼鳥を撮影したのですが、ここに生息するバンは何世代も系譜をたどれるだろうと、その人は言っていました。事実かどうかは別にして、水かきがないから普通の水鳥のように快適に水上や水中を動きまわるわけでもないのですから、水上から空中に飛び立つのは至難の業であるのか、あるいは飛び立つには陸上に来ないと無理なのかもしれません。

壁紙用途にするために若干色を加工した写真を掲載しておきます。

昨夜11時頃に実家に行き雪だしをして、今朝、10時に新潟に戻ってきました。新潟の自宅の20メートルばかり離れたお寺が菩提寺で、そちらで参拝をするつもりで出かけましたら、私と同じくらいの年齢の外国人男性がマミヤC330(今はないマミヤ最後の名機6×6判の中型カメラです)を持って菩提寺にある大きな石の仏像を撮影していました。C330を使っている人がいて、それが外人であることにびっくりしました。C330は私の愛している写真機であり、このサイトでも幾度となく取り扱っています。そこで、英語で声をかけると、完全な日本語で答えていただきました。
そこで、C330のことについてや、銀塩写真について、旅のこと、バイクのこと、などについての話をいたしまして、意気投合いたしました。年齢は私より3歳年上で、外交官をやられていて日本には38年も住んでいること、新潟には17年いること、2月にはマダガスカルに行かれるとのことで、現在は週一度、新潟大学にいっていられるとのこと。名刺交換(当人は名刺を持参しておられなかったので、私が会社の名刺をさしあげました)をし、後日メールを頂戴することといたしました。本当にこの年齢で趣味の合う方に出会うことは殆どありませんでしたが、今年はちがうなぁと、新年にふさわしい出会いであったことに喜びを感じます。

C330については以下のページで取り上げています。
何でもマニア
Mamia C220

私は大学生の頃まで、文学を愛していました。学生の頃軽井沢に行ったのを記憶しています。君は知らないだろうが当時三億円事件と言う犯罪がありました。それをTVの物語としたときの主題歌が沢田研二が歌った「時の過ぎ行くままに」という曲です。私達は大家さんが、三億円事件の犯人グループではないかと思ったほど、純粋で寡黙で危ない仲間でした。その軽井沢までの列車の旅の中で、三億円事件の犯人の手配写真をもっている写真があります。
http://www.syakazuka.com/wp/2002/09/18
軽井沢周辺を歩くときに出会う室生犀星の文学碑を一読したものです。

文学碑
我は張り詰めたる氷を愛す
斯る切なき思ひを愛す
我はその輝けるを見たり
斯る花にあらざる花を愛す
我は氷の奥にあるものに同感す
我はつねに狭小なる人生に住めり
その人生の荒涼の中に呻吟せり
さればこそ張り詰めたる氷を愛す
斯る切なる思ひを愛す

室生犀星といえば「ふるさと」という詩があまりにも有名ですね。
私はこの詩は、過去に固執してはいけないと言うことだろうと思います。過去はデフォルメされて「美しく」あるいは「醜く」「悲しく」「辛く」心に残るものであろうと思います。そして、それを追求して現実を見れば、自分の心の中の映像が壊れていくものだということだろうと思います。
とらわれずに消化することが未来につながることでしょう。痛く辛く切ない気持ちはネガティブに精神を傾斜させます。
注射の針が皮膚を破り血管に入り薬を投与する情景を思い浮かべて見るとわかります。針は表皮から血管にいたる間に、痛みのため、筋肉が収縮します。するとまた痛みが増します。このことをじっくり思うと、注射が怖くなります。注射が怖いと思うあまり、病を治すという医療行為を恐怖で排除してしまいます。注射の針を見て、身体全体の未来にわたる健康を見なくなってしまうのです。私は過去を反省材料とするのはわかります。それは反省材料として未来につながるからです。しかし、過去を現在の視点で反省ばかりしていては行動が出来ません。そのような萎縮した考えはより未来(5年先、10年先)の視点で見るなら、「その考えは間違っているし、そう考えずに、それもまた、未来のための栄養だ」と思えるかもしれません。君は怒るかもしれませんが、私には時々、君にはそのような面があるのではないかと思えることがあります。未来の価値から現在を評価するように心がけると、過去から現在をみるよりは、勇気と行動力が生まれるのではないでしょうか。

ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや

学生の頃の私は現在の私ではまったくありませんでした。文学を愛し、多くの詩を暗記していました。その40年も前を思い出すとその純粋さに心打たれ る思いです。かといって、それは、あり得ない心の「ふるさと」でしかなく、私の未来(といっても限られた時間でしょうが)から現在をみて、なにをなすべき か、なにがゆったりとした心のあり方なのかを今は考えています。この考え方は本当に若いときから持ち続けている私の処世術なのかもしれません。


WMAP宇宙探査機

題 名と作者は忘れたのですが、私達の中の海をテーマにしたSF小説を20年以上前に読んだ記憶があります。地上生存が難しくなり我々人類が海洋生物になって しまうような話だったと思います。その時に、私達人類が海から生まれただけでなく、私達の体内に同等の塩分濃度として血液を持っているとこや、瞬きするの は眼球を濡らすため(乾かさない)であり、それは私達が魚類からの進化したことをいみしているわけで、母親の胎内ですごすのは海中ですごしていることと変 わらないというような知識を得たのです。
その後、私は1987年の400年ぶりに眼前に現れた超新星のニュースから宇宙に強い関心をもちました。 星が生涯を終了する時には核融合の果てにドンドン重い元素に変換され最後に鉄に変わります。その重力は増加の一途をたどり、内部崩壊をし、分子レベルで圧 縮が繰り返され、角砂糖1個の中に100万トンタンカー1000隻分の重さとなり、自らを支えられなくなり超新星となって爆発するにいたります。ただ、そ れが、アインシュタインんの重力方程式の延長上からカールシュバルツシルトが導き出したブラックホールになることもあるわけで、どのようにしてブラック ホールになるのか超新星となって爆発するのかの原理は理解していませんが、ブラックホールよりは超新星爆発のほうが多いように思われます。問題はその爆発 から宇宙に飛び散った物質のことです。超新星残骸が影を落とす馬頭星雲などの漆黒の闇のなかに赤外線探査により、炭素、水素、酸素などの基本的な元素のほ かに、鉄などの分子のほかにアセトアルデヒドなどの複雑な分子も発見されています。さらに地球上や現在の我々が取得することのできなかった分子も発見され ていました。つまり、私達のすべてを構成する物質がその闇の中から発見できたことを知ったのです。そして、それが、宇宙に漂い、太陽系第三惑星に落下し、 長い年月をかけて進化して我々ができたことを理解できました。
私達が海から進化の過程で誕生する以前に宇宙にある物質から生まれたことがわかりました。
旧 約聖書では最初に光あれとして光をつくり、6日目で人間を神はつくりました。古事記によれば、混沌とした中から、最初の独神である天乃御中主神、高御産巣 日神などの5柱が現れ消えた。その後、二柱の独神が現れ、男女のペアの10柱の神が現れた、いわゆる神代七代のことですが、その最後のペアのイザナギ(伊 邪那岐)、イザナミ(伊邪那美)という巨大神により日本列島や皇室の先祖であるアマテラスなどの神々を生んだとされています。いずれの神話にしろ、宇宙誕 生が現代宇宙論に照らしてみても面白いことに納得できるのです。宇宙の誕生は2001年6月30日にNASAで打ち上げられた宇宙探査機であるWMAPに より137億年前であることがわかりました。137億年前に時間も空間もない高密度の一点からビッグバンを経て誕生したのが今の宇宙であると現代宇宙論は 説いています。エドウィン八ップルは20世紀初頭にアンドロメダ銀河の中からセファイドと呼ばれる偏光星の発見と調査から銀河の距離を測定し、全ての銀河 が我々の銀河から遠ざかっていることとを発見しました。さらに遠い銀河ほど激しい勢いで遠ざかっていることがわかりました。つまり、我々の宇宙が膨張して いることがわかったのです。
宇宙誕生のシナリオがわかったのですが、問題は宇宙の終わりはどのようなものなのかを想像することです。宇宙の最後に ついて私の好きな「K-PAX」の宇宙人が「君にひとつだけ教えておこう。宇宙には終りがある。終わるとまた完全に同じように始まり、同じ宇宙となる。だ から、この宇宙で後悔のないようにすごすことだ。」という内容のことを主人公の心療内科医につたえています。輪廻の宇宙感ですね。いかなる生き方にしろ後 悔のないことはないだろうと思います。しかし、生まれたことを私達は認識できていないように、死ぬことも認識できないでしょう。死んだ瞬間には死を認識で きないから。だから、死は限りなく老いることか、限りなく眠く意識の遠のくことのように思います。全身麻酔をされるときに、脊椎に針がはいり、麻酔医師が 「じゃあ、はじめます。」という言葉を聴いたとたん目が覚めました。手術は終わっていました。死は多分、目が覚めない麻酔なのでしょう。常にやり残したこ とばかりであることはわかっている。しかし、少しでも知りたいし、私の場合知りたいものも多いのだが一つ一つは明確です。その一つ一つをつなぎ合わせて、 宇宙神話の叙事詩を作ってみたい。

久々現場にでかけて、責任者と会話をする事ができた。女性のスタッフがある事業所のトップ(40歳)に本を2冊わたした。「何の本なの?」ときいたら、占いの本だった。彼は死後の世界や甦りはあるといっている。霊が存在すると言う。
若 い人ほど霊の存在を信じているらしい。昭和20年代に霊の存在を信じている人は3%ぐらいだったが、現在の若者(20代)では70%が信じているそうだ。 この科学やITの物凄い勢いで広がっている現在、あまりの変化で理解が出来ないが故に理解できない物の存在を感じてしまうのだそうだ。
そういえば、着信やビデオのホラー映画や番組もあり、高視聴率をたたき出したそうだ。
冗 談ではなく、分別盛りの年齢で信じている者がビジネスの先端にいる事に唖然とした。動物は必ず死ぬと甦るのだそうだ。それが、どのような動物に甦るのかは わからないが。それでは6億年前のカンブリア紀の生命の爆発は何処からきたのだろう。種の発生は甦りのメカニズムで説明がつくのだろうか。真顔で言うべき 事ではないと思うのだが。

私は宇宙人の存在やUFOは絶対に認める。なぜなら、地球が宇宙に存在している限り、人類は宇宙人であるからで あり、未確認の飛行物体であればUFOと呼ぶ物であるから、たとえ隕石であっても、隕石として確認されていないのならUFOである。別にUFOは宇宙人の 乗り物と言うわけではない。
だから、宇宙人やUFOについてと霊や蘇りなどとは基本的に合い入れない物なのに、なぜか、彼らは同等に取り扱っている。そんな彼らにエドウィンハップル以来の現代宇宙論に関する僅かな知識だけでも勉強をすることを実に期待したい。

国 宝法隆寺玉虫厨子で聞いたことのあるタマムシまた、政治決着を図るときの常套手段である「タマムシ色の決着」などで、お馴染みのタマムシ。私も実は昆虫類 はそれなりに一般人としての知識はあったと思いますが、全くこのタマムシについては考えが及びませんでした。40年以上前に玉虫厨子のモノクロ写真が教科 書に載っていただけで、「どこが、綺麗ナンジャイ」と思っていましたので、全く興味の対象外でした。この度、新潟県ではめったに見ることの出来ないタマム シの発見(?)となった標本を見せてもらいました。
昨年は生きているタマムシを発見したそうですが、本年はケヤキの下で落ちていたのだそうです。(淡路久雄氏談)

英語ではMetallic Wood Borerと言うのだそうで、Wood Borerはキクイムシのことですから、Metallicとは良く名づけたものだと思いました。4cmくらいなのですが、本当に金属のブローチのようでした。
羽側はもとより腹側も現物は凄まじいほど綺麗でした。

実際の私達の住んでいる現実(?)世界は三次元世界です。大切なことは私達は自分を文字通り、客観的に見ることは出来ないということです。私達の周りに情報があり、私達はその中心に位置しているということです。
ビ デオや写真に私達は写されることがあります。それは、私達の目から見たものではなく、他人の目から見た情報です。つまり、私達は自分を見ることは出来ない わけですね。 実体験として、私達は自分を見る鳥瞰図的な事態はあり得ないのです。学習や単純な技術の習得や、他人の立場などは、最低限文学的な表現ではなく、その人の 実体験の情報を得ることでしょう。
つまり、子供の考え方を少しでも解るには、子供の大きさと体力を持つことは出来ないとしても、目線を下げて、膝 を折り曲げて、その位置で見上げたり、見渡す(周囲の情報を目から取り入れる)ことにより、体験が出来るでしょう。大人は如何に大きく、犬は眼前に涎をた らしながら迫る猛獣にもみえるでしょう。

映画の具体的手法として、主人公は常に画面に映っています。もしも、私達が主人公であったら、実 体験では私達のいない周囲だけが写っているのが事実でしょう。私たちは周囲の情報を受け取り、それに反応して、周囲にメッセージを送るでしょう。映画は常 に実体験ではあり得ないわけですね。つまり周囲の情報が体験ですね。それはスクリーンのように正面だけにある情報ではなく、自分を取り巻く全ての方向に情 報があるのが、実体験で、目で見えるし、匂いで感じられるし、風は後ろから吹き上げてくるでしょうね。

わくわくする冒険や、宇宙の神秘や、スリリングな映画などは、安心感のある他人事でしかありません。TVなら2メートル先の25インチの平べったい画面の中にあります。それ以外で、目に見えるものは TVの下のビデオデッキや上にある神棚などは、我が家の空間です。

実体験は球の中心にいるようなもので、周囲の情報しかないのですね。周囲が見えるし、感じられることが自分の存在の証明ですね。

そして、その情報を与え、受け取ることが出来れば、特に学習には効果があるでしょう。

む せるような、芝の香りを感じ、筋肉で肩に鎧を着ている2m近い大男がバットを持っていて、周囲からは野次が飛び、1累と背中の3累には敵のランナーの視線 を感じ、キャッチャーはいっこうにサインを出さない。額の汗が目に入ってくる。大きく深呼吸をする。大観衆のなかで、鼓動だけが強烈に響いてくる。この一 球で、運命が決まる。
こんな情報が、ピンチにたった、大リーガーのピッチャーの体験かもしれません。体験や学習は自分の周囲の情報を意味します。

そ れを、ヘルメットやゴーグルみたいなもので、網膜に水晶体を通しての情報の提供をしたり、あるいは、直接網膜に情報を与えることが出来れば(一部の実験は 行われています)、そして、そこには、私たちの視界以外が移らなければ、首を右に曲げれば、右の視界が、上を見れば空が、下を見れば、地面が見えれば、私 たちは、より、事実に近い体験を習得できるでしょうね。

その時の表現方法は現在の映画や、写真や文学のそれとは、根本的に違うでしょう。

他の感情や体験が実体験として入り込んでくる可能性があるわけですね。危険も伴うと思います。言葉で命令すれば、目の前にコンパクトな情報操作基板がスケルトンで現れるかもしれません。

私にとりまして、そのような世界観は明確にわかるのですが、つたない表現力のわたしでは、文面に表すことによって皆様にお伝えすることは難しいかもしれませんね。

私の現在のシステムではハードディスクがついに合計で1テラバイトとなりました。最初私がパソコンに触ったときは2K バイトのメモリーしかありませんでした。それが、64Kバイトとなり、1メガバイトとなり、ギガバイトとなり、ついに我が家のシステムはテラの単位となり ました。つまり、キロの1000倍がメガ、メガの1000倍がギガ、ギガの1000倍がテラですので、私がパソコンと付き合ってから、10億倍になってし まったのだと思うと、僅か20数年でこのような発展を遂げた技術は歴史上あり得なかったのではないかと思っています。その意味で、私はそれを体験できて、 まだ、老体を鞭打って、この環境を楽しめる自分が、とてもラッキーなんだと思っています。

以前、あと、何人のシステム関連の卵を育てられるか解らないといっていましたが、楽しんでばかりでなく、この世界に恩返しでもしろという事なのだと言い聞かせて、新人教育をしておりますが、才能のある新人なのでシゴキかいがあります。

み なさんも、写真という画像が、文字では伝えられない情報を明確に伝えることが出来ることには納得出来るかと思います。文章もいいのですし、写真もいいので すが、私は、例えば、つり好きな人が吊り上げた魚が確実な夏の激しい日光が照り返す前の早朝に、竿をしならせて、水中から、空中に飛び上がる姿も見たい。 外国にいる友人の住んでいる街や人や会話が聞きたい。

動画映像は新たなコミュニケーションの手段で、このインターネットの世界では簡単に誰でもが使えるものとなってきています。

「ネッ ト資産の無駄使いだ!」と断罪する者もおりましょうが、明らかに時代は高速に進歩し、変化し続けています。ノスタルジックな手法と考え方をチョッと変える と、また一つ心の目覚めを感じることが出来ると思います。その、体験が、したくって私は未だ10億倍を歩いてきても、もっともっと、先を体験したいので す。

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