寺本家聞き合わせの事
昨日仰せつけられ候寺本家聞き合わせの義につき、愛調べ申し候ところ…..で始まる古文書解読の顛末。本年8月の釈迦塚歴史考でわかったこと。どうしても本月中に記しておきたい。
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長い歴史の中で、私の一族は戦国の世を生き残るために、いくつかの分家をしました。それが、敵味方になることも当然あったわけですが、当時としては当たり前のことだったようです。私の先祖淺野政久は長浜において家臣とともに溝口秀勝の部下になり、秀勝の娘婿となりまして溝口氏が新発田に入部と共に越後に来ました。現在本家の子孫は15代となります。2000年にその本家より、今まで公開されていない古文書が出て参りました。それは、寺本という一族からのもので、「由緒書をつくりたいのだが、自分達の親族は3家あるが、どちらともわからない事があるので教えていただきたい。」と言うものでありました。確かに、添付されていたその一族の一番古いものでも、正徳元年(1711年)なので、寺本の歴史から言えば300年以上は明確となっていなかった。そこには寺本の数人の名前と誕生と末、相続などについて書いてある添付書が2枚で、本文と会わせて3枚の古文書でした。元々、私たち淺野は初代の淺野政久の母が淺野長政の妹であり、淺野政久は寺本政久でありました。ところが、父の遺言で母に感謝するために淺野姓を名乗ることとなりました。政久の父は室町幕府の最後で戦死し、父の弟によって育てられ、その育ての父の遺言は守らざるを得なかったので淺野姓を名乗ることとなりました。
その、淺野に何処の寺本かわかりませんが、そのような照会文が届いたことを考えれば、当時は連絡がついていたのだと言うことがわかります。当初、私たちは家康(権化様)を助けたと系図の付記に記録があったので、江戸の旗本になっていたのではないかを思っておりました。旗本の記録をあたりましたが、見つけることはできませんでしたが、この一族は明治になって、江戸から滋賀県の某所に移住したことが明らかでした。この滋賀の寺本家とは連絡が最終的につけることが可能となりました。しかし、古文書の寺本家の所在は2006年にお茶の水女子大教授の真島秀行氏によって広島に仕官した一族とのことでありました。それは、国立図書館の収蔵古文書により、私ども先祖に届けられた古文書の人々の氏名や年代が確認されたことによります。
そして、昨年、その広島の寺本一族の遠戚の一人からネットを見つけて連絡がありました。広島の寺本家の末裔すべての人々が昭和20年8月の原爆がもとで絶滅したとのことでありました。400年以上前に子孫を少しでも残すために広島に、江戸に越後にわたった末裔のひとつが完全に消滅していたことを知りまして、感慨深いものがあり、平家物語の冒頭を思うに至りました。


