「釈迦塚の祖先捜しから寺本家家筋まで」補遺 平成14(2002)年8月17日
真島秀行
1.寺本氏について
寺本の系図の信憑性を巡って、直勝が孫兵衛と同一人物で、忠直までは信用できるということ
をまとめて、浅野和夫氏HPに掲載しました。
http://www7.ocn.ne.jp/~giemon/index_jpn.html
しかし、浅野和夫さんから送られてきた、秘して伝えられるという資料によると直久改名の経緯、新田開発の経緯が違うようです。こういった文章は、10代名主政悳が残したものと思われ、彼が京都に行って壽塔、塔文を見て、「内蔵元の6歳から11歳まで、・・・明智・・・芸州浅野・・・」を記録し、家系図等に反映したとすれば、信憑性は下がるかもしれません。けれども、登場人物として忠直までは信じられると思います。
滋賀県の寺本さんからは何も返事がないのでこれ以上はわかりません。
また、浅野和夫さんから別に送っていただいた書類中に徳川幕府に仕えたとされる寺本家の跡目相続に関するものがありました。正徳元年(1711)から天保八年(1837)まで書いてありましたが、その家の消息は現在のところ不明です。
ところで、森鴎外の「阿部一族」には熊本藩主細川忠利(1586- 1641)の死に際し殉死を許された一八人のことが書かれています。一番目に寺本八左衛門が出てきます。その部分を引用すると、ということで、この寺本氏も愛知県知多半島寺本村の出であるということがわかります。極楽寺城の寺本氏との関係は現在のところ不明ですが発祥地が同じで関係があるような気がしています。大阪篭城とは大阪冬・夏の陣で、後藤又兵衛基次は黒田家を浪人した人です。黒田家は播磨の真(間)島(嶋)家と関わりがあり江戸時代、間嶋の血が絶え、黒田家の人が継いています。それは「間嶋家譜」(東京大学史料編纂所所蔵) に書いてあります。
寺本が先祖は尾張國寺本に住んでいた寺本太郎と云うものであった。太郎の子内膳正は今川家に仕えた。内膳正の子が左兵衛、左兵衛の子が右衛門佐、右衛門佐の子が與佐衛門で、與佐衛門は朝鮮征伐の時、加藤嘉明に属し功があった。與左衛門の子が八左衛門で、大阪篭城の時、後藤又兵衛基次の下で働いたことがある。細川家に召抱えられてから、千石取って、鉄砲五十挺の頭になっていた。四月二十九日に安養寺で切腹した。五十三歳である。
寺本氏については、我々とは関係ないと思われますが、「系図纂要第12冊上清和源氏(6)」(98頁)に次のような人が掲載されています。
忠資
寺本左衛門尉
住美乃岩村五郷後遷住深水城(今の岐阜県の岩村、熊本県球磨郡相良村深水らしい)
—忠綱一忠氏一忠知一宗貞一忠順一正氏
—忠政
善右衛門 属信長公
永禄11年9月13日死 法名運全
—(寺田)忠秀
善右衛門 仕信長公死本能寺
覚月宗善
なお、熊本県知事として寺本姓の人がいました。
2. 釈迦塚に来る前の真島家について
「新潟市合併町村の歴史第2巻、新潟市編集・発行、昭和52年9月」の210-211ぺ一ジに旧濁川村の真島家の由来が書いてあり以下のようです。
「真島氏はもと美作国真島郡の郷士で、年代は不詳であるが戦国末期か江戸初期頃か一族郎党を率いて郷土を出た。京都と加賀国に何年か転住の後、元禄頃濁川新田の地に移転して来て、付近の地を開拓し帰農したが、同氏は江戸時代を通じて郷士の処遇を受け、名字帯刀を許されて明治に至った。(中略) 真島家の先祖権兵衛が、元禄年代頃濁川に来住したことは前述したが、その時わらじぬぎをした家は利平家(現主真島平松)であったと言われている。初代権兵衛は正徳5(1715)年逝去したが、以後代々権兵衛を称して明治に至り、現主 明氏は第12代に当る。(後略)」
この家は廻船業も行い、明治初めには300町歩以上の大地主でした。新潟県地主会長であった大正時代の当主真島桂次郎は木崎小作争議では単身で泥をかぶり、独りで小作側の矢面に立ったそうです。戦後の農地改革・財産税導入により富豪の座から転落してしまったようですが、多くの一族が新潟市近辺にいらっしゃるように思われます。この濁川の真島家と釈迦塚の真島家と関係があるのかないのかまだはっきり分かりませんが、私は、釈迦塚新田の真島氏の元禄時代の当主が、名主の娘と元禄16(1703)年に結婚した長男を留め置いて、他の家族を引き連れて濁川に来た、という説をたて、私たちの祖先も京都に来る前は美作にいたのではないか、と考えていました。
美作には現在真庭郡があり、元は真島郡と大庭郡でした。真島注連太夫という神職について、山陽新聞社刊の岡山県歴史人物事典227ぺ一ジにつぎのような記載があります。「おかだかが 岡田加賀 戦国時代の太夫頭 美作国西部の人 戦国時代に美作国二宮をはじめ西六郡での神楽の興行権をもつ真島注連太夫座の太夫頭。注連太夫座の興行権は南北朝時代に成立したといわれ、戦国時代には尼子、毛利、宇喜多の諸大名によって保証され、年貢などの諸役の免除とともに、3年に一度の二宮社頭での興行が義務づけられていた。なお太夫頭にはほかに河内村(現落合町)の王子権現に所属する須田越中がいた。(『作陽誌』、 『岡山県古文書集』、 『津山市誌』)」ここでは真島は地名でしかありません。(熊本藩主細川忠利の死に殉死した寺本八左衛門は大阪冬・夏の陣で後藤又兵衛基次の下で働いた)播州後藤氏の荘園もあったという記録もあります(松本多喜雄著「播州後藤氏の栄光」参照)。「真島一族」という本には戦国時代後期に歴史に残っている真島氏の人がいると書いてありましたが、そのような一族が我々の祖先かもしれません。
しかし、今年のNHK大河ドラマ「利家とまつ」を見ながら、播磨の赤松出の真(聞)島系であるという可能性もやはりかなり濃厚ではないかと考えています。秀吉の播磨攻略に従った浅野長政方に真島家のある者が付き、寺本改め浅野家とも関係ができたのではないかということが十分考えられます。
以上