寺本氏は深草土豪四家(赤塚、藪、寺内、寺本)の一にして世々足利氏末まで隆盛なり 一度明智氏に属し豊臣氏向鉾して終に隠栖蟄居 芸の浅野候に仕子孫嗣継
全す大雲直勝院開祖実家たるの故を以て茲に写録す
という文で始まり、
孫兵衛 深草郷領主織田信長に属し天正三(1575)年六条河原戦死
|
|—吉太夫 深草郷領主 明智光秀に属し天正十(1582)年於山崎戦死
|
|—内蔵允 深草郷の内極楽寺村領主兄吉太夫城西山崎戦の後豊臣氏盛威を懼れ隠栖蟄居
| 藤八入道と云天正十(1582)年当時藤八年八歳也寛永五(1628)年為冥福壽塔
| を宝塔寺境域の傍○に建以祖先追悼を○表す浅野候に任仕
|—日随 父隠栖の後宝塔寺日銀上人の室に入得度順禮を重ね松井友干氏請い依て
| 塔中西大坊に入(今の大雲)又地域を割て隠栖す是を直勝院と云
| (今の直勝)即開基
|
|—覚左ヱ門 紀州浅野候に仕○を芸州に随従子孫栄昌
|
|—日騰 伯父日随徒弟西大坊を住持し自ら法号大雲院を以て寺号と為す
という草山宝塔寺誌より簡単な系図が示され、
寺本前内蔵允忠吉壽塔 大五輪形
墓域東西十四間南北八間
識本院学翁宗心居士、
寛永五(1628)戊辰季九月初三寞
塔文に云
夫塔廟者毘慮遮那之尊形方徳円満之惣躰也
故願主刻彫之擬于覚果矣然則依斯功薫提妙
法之智釼拂無明之怨敵破生死之嶮城請涅槃
之厳都乃至法界倶蒙于利潤耳石塔建立主城
州深草住人亡父寺本孫兵衛捨命於六条合戦
挙名於京城田舎矣則先領極楽寺郷従六歳至
十一歳也示後遣于明智日向守等仕今安備両
国太守焉寺本内蔵允忠吉逆修也
真浄院玄幽日栄居士 芸州廣島士
宝永八(1711)年辛卯二月五日七十歳
寺本覚左ヱ門
(草山宝塔寺誌より)
寺本内蔵允(武人)
尼子十勇士の一族
寺本覚左ヱ門(同)
(法華名家 掃苔録75頁)
といった内容が書いてあり、内蔵允の存在は確かなもののそれまで知っていた寺本氏の系図と直接合うものではありませんでした。しかし塔文は信頼できるものと思いました。
5.浅野家系図「本 家系」
大雲寺に現存する「寺本氏の墓」の話は、5月末に淡路久雄氏に文献のコピーと共にお手紙でお知らせし、1999年8月某日にまた釈迦塚を訪ねるつもりであることも
えました。「由緒書に多少疑問がありましたが、この史料により信用できるようになりました」と即返事がありました。6月の「寺本氏の墓」の墓参後、「大雲寺祖方寺本氏略譜」のコピ
をお送りしたところ折り返し、「慶長十一年か元和四年に書かれたとみられる『浅野家系図』(コピー不許可で筆写)と『釈尊縁起』」が送られてきました。
古文書として見られるその浅野家系図「本 家系」でも、やはり、藤原鎌足から始まり、利仁を経て、尾張守光忠に至り、その嫡男山城守忠元が寺本氏の始祖であると記しています。
の父である尾張守光忠が尾張國寺本郷に在った故に寺本氏と称し、自らは山城國紀伊郡極楽寺城に住んでいたと書かれています。忠国、直忠、忠定、忠之、忠克、忠秀、を経て、兵庫頭忠
に至ります。忠直の事跡として以下のことが書かれています。
忠直 兵庫頭
仕大将軍義晴公及義輝公為極楽寺郷城主永禄八(1565)年五月三好義継其臣松永等謀反卒兵囲室町館此時護衛武士多闘死公亦躬出防戦遂被我祖忠直亦従公□□(多分、「殉死」が入る)<
R>
忠直には息子が三人おり、直勝、直次、直壽といいました。
直勝 兵衛尉
紹父之業在城極楽寺郷永禄十二(1569)年三好山城入道等叛義昭公於六条河原大戦直勝在先鋒戮群敵竟于軍中年三十□□有二子長子内蔵允時年六歳次子直久時三歳□□□長浅野□□政改
□□
来源(注:入道来源、直次)
|—女子
|—日随 大雲院住侶
|—男子
直壽 内膳正 忠直之季子直勝弟
天文十二(1543)年二月于極楽寺郷及壮有達兄直勝之意□被直勝臨六条之戦将危之時直壽馳入其陣中奮勇突戦終退散軍済之直勝向死其志聴為兄弟如□□閑居於江州赴戦場天正元(1573)
□与武田信玄戦而不利直壽走而殿挑戦甚苦於燕爰
□君入于浜松城労諸卒称酒井親岩等□人有功労次嘆直壽之与苦戦脱其着兜賜之同十(1582)年夏□□□
君出在泉州明智光秀遽自丹州襲□織田君於京都本能寺君慮難潜走三州此時直壽従走
慶長五(1600)年六月病而卒年五八
ここで系図としては記述が終わり、日付が完全には読めませんが、「午 八月十五日」で(入道来源)直次の署名があります。
直壽は慶長五(1600)庚子年に亡くなったこと、日随が大雲院住僧であることが書かれていますから、その後の「午」の付く年として、慶長十一(1606)丙午年か元和四(1618)戊午年で
が、釈迦塚釈迦堂の釈尊が贈られてきたのは、まさに元和四(1618)戊午年であったと釈尊縁起に書いてあり、この年に書かれた系図である、と考えられます。
この系図や家筋書と「大雲寺祖方寺本氏略譜」では少し登場人物、年代の相違が見られその解釈が問題になりましたが概ね信用でき、1999年の7年に一度の釈迦堂ご開帳の年の成果とし
はここまでとしました。
6.坂井砦蹟碑御撰文願草稿 安政四(1857)年未巳孟夏十五日
2000年8月某日の釈迦塚訪問の際、淡路久雄氏から、「坂井砦蹟碑御撰文願草稿」という安政四(1857)年未巳孟夏十五日に書かれた古文書の写しをワープロ入力
たものをいただきました。坂井砦・三條合戦などが主な内容で、家筋に関することが挿入され、それは大体冒頭に引用した浅野家家筋書(安政二(1855)年)と同じ内容ですが、大きく違
のは内蔵允に関する記述があることでした。
「永禄十二(1569)年三好山城入道等将軍源義昭に叛き、六条河原戦闘の時幕府に在りて先鋒の命を蒙り群敵を殺戮し大創を負ひ軍中に卒す。其子内蔵允吉忠時に六歳父の遺跡を継ぐ、
正元(1573)年将軍家源義昭織田信長と不和にて西国へ落剥、この頃吉忠幼弱にして勢い振はす志を得す、終に極楽寺を退城す、其子孫今に城州、摂州、芸藩等所々に住す」
この部分の記述は、寺本前内蔵允忠吉壽塔の塔文中の
「石塔建立主城
州深草住人亡父寺本孫兵衛捨命於六条合戦
挙名於京城田舎矣則先領極楽寺郷従六歳至
十一歳也示後遣于明智日向守等仕今安備両
国太守焉寺本内蔵允忠吉逆」
に合致しておりましたので、間違い無く適切な解釈ができるとそのとき確信しました。
7.寺本氏系図の信憑性
2000年8月某日に釈迦塚から戻って、やはり「大雲寺祖方寺本氏略譜」のもととなった「草山宝塔寺誌」の部分を見せていただこうと思い、宝塔寺ご住職に
草山宝塔寺誌」を見せて頂けないかとお手紙を書きました。それに対し、大雲寺誌、直勝寺誌の写しをいただきました。これにより日随、日騰の正確な没年、大体の生年、確実に伯
の関係であること、松井友干(注:豊臣秀吉家臣であった松井藤助)との関わりなどがよくわかりました。さらに、国立国会図書館で見つけた「日蓮宗大鑑(昭和56年1月本門寺刊行)」
>から確実な生年も分かりました。しかし、寺本氏の系図が宝塔寺にないものか再度お手紙するとご住職から「寺本家の先祖の記録は、深草宝塔寺には先日の寺誌しかなく、大雲寺原住職に
えた時には聞き覚えていた程度の事で、書類によったものではなく系譜については全く分からない」、とのことでした。
そこで現在は以下のように考えています。
「坂井砦蹟碑御撰文願草稿 安政四(1857)年未巳孟夏十五日」と「寺本前内蔵允忠吉壽塔の塔文」の内蔵允に関する記述の一致から、「内蔵允が六歳から十一歳まで極楽寺城」を
していたことは信用でき、その前後の明確な記述のある浅野家に伝わる系図とこの塔文を信じてよいと思います。
まず、寺本内蔵允忠吉(=吉忠)は浅野直久=久政=政久の3歳上の兄で、この兄弟の父寺本兵衛尉直勝が、塔文に出てくる寺本孫兵衛である、と断定して良いと思われます。直勝は、
禄十二(1569)年正月二日三好三人衆(三好長逸(縁)、三好政康、岩成友通)逆乱の時足利義昭公に奉じて六条河原大合戦で戦死、了光院殿浄功大居士。弟の直壽が天文十二(1543)年生
れで、間に直次もいますから、1540年くらいの生まれです。直勝亡き後は、直壽が、幼いこの兄弟の育ての親の役割を果たしたと考えられ、浅野家系図あるいは家筋書で明確にしたくないの
徳川時代に室町幕府の味方していたことをあまり表面に出したくなかったからだと思われます。この3兄弟の父寺本兵庫頭忠直は1510〜20年くらいの生まれと推測されますが、永禄八(1565)
五月十九日三好三人衆(三好長逸(縁)、三好政康、岩成友通)と松永弾正久秀の反乱の時室町之御所で将軍足利義輝公に従い殉死、了照院殿浄顯大基山。
塔文には、「明智日向守等に遣わされた」とあり、明智光秀が江州(滋賀県)坂本城主になったのが元亀二(1571)年、天正元(1573)年室町幕府滅亡し、天正三(1575)年に日向守に任
られ、天正十(1580)年に本能寺の変があったわけですが、内蔵允吉忠(忠吉)十一歳の次の年がちょうど天正三(1575)年で明智光秀が日向守に任じられた年と合致します。また、浅野の客
なる可能性について無理のないことが年表で読めると思います。
従って、忠直までは完全に信じられると思います。
京都の戦乱も治まった天正十八(1590)年に日銀が十八歳で旧妙顕寺を継ぎ、45年かけて再興し今日の宝塔寺の礎石を築いたのですが、その一翼を担ったのが、直勝院日随(1590〜1669、80
)、大雲院日騰(1622〜1704、83歳)という寺本氏出の伯甥でありました。日銀は森嶋家の出で、その兄で松井家を継いだ松井友干(〜1619.6)が慶長十二(1607.6)年に息子を亡くし西之大
(後の大雲院、大雲寺)に隠栖していた当時、西之大坊を一院として永続させたく思い、日銀の弟子の日随を請い受けて、継がせました。日随に支院として任されたのは寛永元(1624)年で
が、それ以前(1607.6〜1619.6のある時点)から西之大坊(後の大雲院、大雲寺)の住侶となっており、そこまで書いてある浅野家系図は元和四(1618)戊午年に直次・入道来源に書いたも
と判断できます。釈尊縁起に書いてあるように元和四(1618)戊午年に直次・入道来源の形見(現釈迦塚釈迦堂の釈尊や系図)を甥の直久=久政に贈ったのは、日随であろうと思われま
。そして、西之大坊(後に大雲院、さらに大雲寺)に対する寄進・寄附・援助を依頼したのではないでしょうか。これに対して、(直久=久政=政久は前年元和三(1617)になくなってい
したから)実際に釈尊を受け取り寛永十三(1636)年丙子二月に釈迦堂を建立した息子で釈迦塚開基の儀右衛門はどのように返事したのかなど、浅野家に私信が保存されていれば事実関係が
かるのではないかと思われます。日随からは、もちろん内蔵允に西之大坊(後に大雲院、さらに大雲寺)への寄進・寄附・援助の依頼があったはずで、それに応えて、元和五年(1619)年
晟安芸廣島四十二万石に移封に伴って芸州に行った内蔵允は、壽塔建立資金あるいは現物を贈ったのではないでしょうか。その後、日随は、甥を弟子とし大雲院日騰と命名し西之大坊を継
せ、自らは隠居し直勝院を開き、日騰が西之大坊に自らの院号大雲院を付けてと改称したのは慶安元(1648)年ということでした。直勝院という日随の院号は、六条河原で戦死した直勝に
来するに間違えないでしょう。浅野家名主の法名の院号は上に(第2節)見たようにまさに名前を用いています。
8.浅野長政家や明智光秀の動き等との関連
明智光秀の動きや浅野長政の動きと寺本氏の動きを羅列した表を作り上の解釈に無理がないことを確かめておきましょう。
浅野長政公伝(明治43(1910)年4月14日作成、没後300年に際し従五位下から従三位を贈られた時のもの。国立国会図書館蔵、マイクロフィルム 327-308)の記述を柱として、丸括弧で補
た幸長、長晟、明智光秀のことは、戦国人名事典コンパクト版(人物往来社)によります。
〔〕括弧で補ったのは、寺本氏関係のことです。
〔天文十二(1543)年 2月 寺本直壽生まれる。直勝はそれ以前の生まれ。〕
天文十六(1547)年 近江國浅井郡小谷安井氏に生る。後尾張浅野に養はる。
〔永禄 八(1565)年 5月 忠直 義輝公とともに戦死〕
永禄 九(1566)年(20歳)始めて秀吉に属し采地二十貫をうく。
〔永禄十二(1569)年正月 直勝 義昭公を奉じて六条河原において戦死〕
(元亀 二(1571)年、 明智光秀が江州(滋賀県)坂本城主)
天正 元(1573)年(26歳)浅井征伐の功、采地百二十石をうく。
〔室町幕府滅亡:武田信玄(この年戦中病没)戦で直壽 家康軍で活躍〕
天正 二(1574)年(27歳)近江國伊香郡持寺郷の内百二十石をうく。中國征伐佐用、上月両城先登の功。
(天正 三(1575)年 明智光秀 日向守に任じられる。)
〔内蔵允吉忠 明智の客となる、直壽・政久は浅野の客となる、直壽後徳川に仕える〕
(天正 四(1576)年(29歳)幸長出生)
天正 七(1579)年(33歳)近江國北郡郷福永の内三百石をうく。丹生寺城、三木城攻陥の功。
天正 八(1580)年(34歳)蜂濱城救援の功、知行高四千六百石をうく。
天正 九(1581)年(35歳)播磨國楫東郡に於て千石加増。姫路城を築き鳥取城攻落に功あり、姫路城代となる。
〔4月溝口秀勝公が織田信長より若狭國に五千石賜り高浜城に在城、4月政久 父祖よりの世臣を大勢召具し高浜の溝口秀勝公のもとに来たり客となりて、公の加冠にて元服をなす〕
天正十 (1582)年(36歳)近江の内に於て、三千六十石加増。
(本能寺の変、山崎合戦)
天正十一(1583)年(37歳)江州、勢州の戦功、越前の戦佐久間玄蕃生捕の功。近江の國下甲賀、栗太両郡の内二千三百石をうく。京都所司代の事を掌る。
〔4月溝口秀勝公が加賀大聖寺へ四万四千石にて移封 政久に能美郡の内に采地賜る〕
天正十二(1584)年(38歳)小牧山合戦に従ふ。
天正十三(1585)年(39歳)根来寺征伐の先駈、佐々成政征伐に従ふ。五奉行の首位に置かれる。近江國高島郡の内に於て七千二百石加増。従五位下弾正少弼に任ぜらる。
天正十四(1586)年(40歳)秀吉の為め使して家康と成を行ふ。長晟出生。
〔政久嫡子(後の浅野儀右衛門政邇)、天正十四(1586)年加賀國大聖寺にて出生。〕
天正十五(1587)年(41歳)島津征伐、筑紫の事を奉行す。若狭一國を賜はり小濱城に居る。近江國志賀郡の内二千五百余石をうく。
天正十六(1588)年(42歳)聚楽行幸の際前田玄以を扶けて事を掌る。肥後乱を定め制法を立つ。
天正十七(1589)年(43歳)豊太閤朝廷親王以下へ金銀を献ず、公前田玄以等と之を掌る。
天正十八(1590)年(44歳)皇室へ鶴、白鳥、各一を献納す。朝廷長政の労を思召れ勅作香りを賜ふ。小田原征伐、岩槻、鉢形、忍の諸城降陥の功あり。前田利家、石田三成と共に陸
の検地に従事す。
天正十九(1591)年(45歳)陸奥國九戸の乱を定む。若狭國に於て六千五百石加増。
文禄 元(1592)年(46歳)朝鮮征伐、太閤に従ふて名護屋に在り。
〔豊臣秀吉家臣であった松井藤助(後の松井友干)も名護屋に出陣〕
文禄 二(1593)年(47歳)渡韓戦功、太閤への諫言。
文禄 三(1594)年(48歳)甲斐へ入國。
慶長 三(1598)年(52歳)太閤の遺嘱を受け家康以下と誓ひ、征韓軍召還のため博多に向ふ。
〔溝口秀勝公が越後國蒲原郡新発田城へご入部、政久父子大勢の世臣とともに従う〕
慶長 四(1599)年(53歳)尾張熱田八劒宮改築造営をなす。
慶長 五(1600)年(54歳)関が原の役。(10月幸長紀伊37万石うける)
〔溝口秀勝公より、政久父子坂井砦の守将に命ぜらる。大勢の世臣とともに従う。〕
〔直壽58歳病卒〕
慶長十一(1606)年(60歳)常陸真壁郡に於て退隠の料として五萬石をうく。
慶長十四(1609)年(63歳)近江國神崎郡に於て五千石をうく。
(慶長十五(1610)年 長晟 備中足守で二万四千石を給される)
慶長十六(1611)年(65歳)下野國塩原温泉に於て死去。
(慶長十八(1613)年 8月25日幸長和歌山で死亡。長晟就封)
〔元和 四(1618)年 直次入道来源が家系図を書き、それとともに遺品が坂井砦の政久(既に死去)に届けられる、溝口宣勝公の命により坂井砦を廃す〕
(元和 五(1619)年 長晟安芸廣島42万石に移封)
〔寛永十三(1636)年 釈迦塚新田 開墾全就、移り住む〕
9.大雲寺の寺本氏略譜の疑問点について
大雲寺祖方寺本氏略譜に書かれていることで、系譜は信用しなくてよいとして、いくつか確かめたいことが残ります。略譜の中に○の部分が初めからあり、何かを
したはずなので、宝塔寺には、必ず何か他に資料があるはずです。
冒頭の「寺本氏は深草土豪四家(赤塚、藪、寺内、寺本)の一にして世々足利氏末まで隆盛なり」というのは何か文献があるのでしょうか。内蔵允の兄とされる「吉太夫 深草郷領主
明知光秀に属し天正十(1582)年於山崎戦死」は想像上の人物と考えらますが、それでよいのかどうか、この人は深草郷全体の領主となっています。一族の誰かでしょうか。
「内蔵允 深草郷の内極楽寺村領主兄吉太夫城西山崎戦の後豊臣氏盛威を懼れ隠世蟄居藤八入道と云天正十(1582)年当時藤八年八歳也寛永五(1628)年為冥福壽塔を宝塔寺境域の傍らに
以祖先追悼を○表す浅野候に任仕」は、亡くなった年が刻まれていると宝塔寺誌に書いてありそちらを信用すると、建立の年を刻んだとするのは間違えになります。
「日随 父隠栖の後・・・」の父はここでは内蔵允、しかし浅野家系図では直次。直次亡き後養子にしたとも考えられます。
「覚左ヱ門 紀州浅野候に仕?を芸州に随従子孫栄昌」は内蔵允の子となっていますが、そのままでかまわないでしょう。1619年に浅野長晟候は芸州に移ります。その前から仕えている
。大雲寺にある墓の主、真浄院玄幽日栄居士 芸州廣島士 宝永八(1711)年辛卯2月5日70歳 寺本覚左ヱ門 とは違います。日騰(1622〜1704、83歳)の父になれる人です。
「日騰 伯父日随徒弟・・・」の父は覚左ヱ門。このままでよいですが覚左ヱ門は内蔵允の息子か直次の息子日随の弟の子のはずです。
10.「雍州府志」(貞享三(1686)年9月発刊)の記述に対する疑問点
先に引用したように、「雍州府志」、「寺本氏の墓」の主の寺本氏は織田信長公と足利義昭公が六条河原に於いて戦ったとき信長公に従い戦死した深草極楽寺
の人である、ということになっていますが、上で見たように、六条河原の戦は永禄十二(1569)年正月2日三好三人衆が足利義昭公に逆乱の時のもので、直勝は足利義昭を奉じて戦ったので
り、「雍州府志」の記述とは異なります。寺本家や釈迦塚浅野家では祖先が室町幕府の味方していたことをあまり表面に出したくなかったらしく、塔文からはどちらに味方したかなど
からぬようになっています。それにも拘らず、なぜ織田信長と足利義昭との戦とされ、織田方とされたのでしょうか。信長の家臣の明智光秀に仕えた、浅野家に関わりあるいは仕えていた
いうことが後の貞享年間には誤解される大きな理由になったということでしょうか。
11.おわりに
1世代遡る毎に祖先の数は2倍になり、例えば約300年前 12世代前では、2の12乗で4096人、約500年前20世代前では、2の20乗で1048576人の祖先がおり、そこから自分に至る
べての人は2097151人という多さです。現在の自分を生み出してくれた多くの方々に感謝をして拙文を終えることとします。(以上)