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釈迦塚新田「孝の記録」

淡路久雄


極め付きの親孝行
 釈迦塚新田に親孝行の記録がある。  新発田藩の公式記録である『御記録』に「文化三年(一 八〇六)六月二十四目申之島組釈迦塚新田、宇兵衛孝 行に付米弐俵被下」と記されている。このときの表彰文 が宇兵衛家に現存している。

「釈迦塚新田
間脇
宇兵衛
一、米弐俵
 その方儀、年来両親へ手宛よろしく、父宇兵衛生存の
内十ヵ年程も盲人に相成り候処、常々介抱親切にいたし、
八十歳にて死去いたし、母は十ニケ年以前より盲目に相
成り、歩行叶わずに付、朝夕の起居は勿論、寒暑の凌ぎ
まで万端心を用い、使用等はなるべく差し繰り家内に居
合わせ、母の心に適う様に取り扱い、給わりもの好みの
晶はそれぞれ取り調え、外方へ用事にまかり罷越侯節も
行き先の用事まで申し聞かせ、母の機嫌を伺い出かけ、
帰り侯ても早速容体承り、四方山の物語いたし聞かせ、
収穫物は持参の上、手に触れさせ、出来方の様子までそ
れぞれ言い聞かせ、或いは作物の出来が良い場所へ背負
い行き手探りに出来具合を伺わせ、安心致すよう心配り
をいたし、また、村に談儀僧(法話僧)など来り侯節は
自身背負って行き、盲を慰めいろいろ孝養いたし、母の
気持ちに背き候儀毛頭無く、孝心奇特に付御褒美として
右の通り下し置かれる、
寅三月」
 以上が表彰状の全文である。二の年長目村某とともに
二名表彰されている、、

もうひとつの親孝行

『北越奇談』 人物編 其八
「蒲原郡釈迦塚村新六といえる貧民あり、母につかえ て至孝実直類なしといえども家貧なるがゆえに身を売り て谷江氏に仕う、妻を迎えず母一人家にあり、新六目々 農事をいとなみすこし隙あるときは母のもとに行きて安 否を問う、風雪炎暑といえども母を間わずということも なし、母常に雷を恐る、もし雷電する時はいかなる暗夜 暴雨といえども起き出でて母の家に至り傍らに侍す、又 その身貧乏に苦しむといえども食欲の心一点もなし、主 人の家を出て外にあそぶときは先ず主人並びに朋輩の見 る前にて自ら衣をぬぎ塵を払いなどして且着て出でさる、 その意ひとえに人の疑わんことをはばかるのみ、後母病 んで畜ゆ、これに依り主人にいとまを請い受け、家へ帰 り母を介抱す、又僅かに耕作をいとなみ朝に出て暮れに 帰る、其一目のつとむる所者もって母に語り匁くさむ、 又母盲なるがゆえに新六が着する所を知らず、不時に酒 食魚肉等を求む、即ち風雨暗夜目暮を論ぜず、今町の市 に走りて是を買う、其行程凡そ二十余丁也、且家貧なる がゆえに値わずか十銭に過ぎずといえども其労をいとわ ず、後に母亡ぶ、新六悲泣して止まず、終に狂うが如く、 依って農事をつとめず、家益々困乏自ら人によりて食を 求む、又雇われて食を求む、かくの如きこと三年病んで 茅屋に臥す、只谷江氏是が為食を贈るのみ、下目にして 卒す、誠に哀れむべし、予過ぎしころ其孝直を聞き相尋 ねるに既に没して子孫なし、沸涙すれどもおよばず、こ こに於いて一論あり、前の春松は孝をもって一目千金の 富を得、この新六は至孝正直にして困乏餓死す、ああ天 孝子を憎むとならば何そこの春松を當ません、天孝子を 哀れむとならば何そこの新六を困せる、博しいかな新大 惜しいかな新六。
 『北越奇談』は文化九年二八一二)発刊。著者は三> 條の人で橘崖嵩。浅野儀有衛門とは親交あり、、他にも菖 蒲塚一巻町一出土古鏡一元谷江氏所蔵現新潟県指定重要 文化財)の記述もある。

『甲長随筆』弘化元年(一八四四)
小泉蒼軒
「釈迦塚新田谷江庄左衛門所持土器」

 「谷江氏の先祖は父母へ孝養を尽くし仁愛慈悲のここ ろざし深く、父母みまかり結いて後しばらく兄に仕い農 業を怠らず、常々兄嫁を尊敬給いけること、父母のごと しとなん、その誠心をいうも感応ましましけん、不思議 の霊夢を蒙りて土中より堀だし結いけるこがねのはいり たる瓶なんとて、ふるきもの物がたりのついでにみせら れけるに、いと尊さのあまりなおも子孫繁栄を悦んとて 霧の二ころを 孝行を天の恵みや冨さかふこかねのかめは万劫の橿
笑越庵雪人
文化十五寅春吉日」

今村松領本家嘉坪川村谷江善行衛門という、このかめは分家たり 先祖薄兵衛が同村の内にて掘り得たるものとそ、其場所善右衛門が うらに畑となりてあり。
 筆者小泉蒼軒(一七九七〜一八七三)は坂井新田の名
主であったが、市之瀬新田(現新津市)の名主として転> 出した。
 歴史家、自然地理に造詣が深かった。著書にも自然、 地理、風俗に関するものが多い。浅野儀右衛門を狂歌の 師として、また名主の先輩として尊敬していた。今町を 尋ねたときは、先ず浅野邸へ挨拶に出向くことを常とし ていたことからもうかがえる。