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坂井砦蹟碑御撰文願草稿
の解説 淡路久雄

本資料は釈迦塚区有浅野家文書の一である。筆者浅野正八郎(十代)が自己の先祖、浅野儀右衛門の釈迦塚新田定着の基となった、新発田藩領坂井砦の事跡と浅野家の活躍のありさまを碑に刻み、後世に残そうと企てた。その碑文を江戸の安積艮斎・塩谷世弘に撰文を依頼した際の正八郎の草稿である。
碑の建立はならなかったが、撰文は完成した。これは『新潟県史』資料編三に掲載されている。
述べられている事柄は寺本改め浅野家の由緒と関ヶ原合戦の前夜、徳川方の春日山堀氏を中心とした越後諸大名勢と三成方の旧領主の会津上杉氏の戦いを記したものである。
浅野家とは、釈迦塚新田の名主で釈迦塚新田の開発者で近世を通して釈迦塚新田の肝煎・名主を、更に大正七年に釈迦塚を離れるまで戸長・村長・区長職を務めた家である。
「浅野家由緒書」によれば出身は山城国深草で十六世紀末頃、若狭国高浜で溝口公(のちに新発田藩主)に御目見得し、大聖寺(現加賀市)を経て新発田へ入る。慶長五年(一六〇〇)二月、中之島・大面郷の守りとして譜代の家臣と共に坂井砦に入った。
越後遺民一撲は慶長五年、越後から会津に移封になったばかりの上杉景勝が旧領の回復を図って越後に兵を向け、同時に越後に残った旧臣たちとかたらって各地に一撲を起こさせた。津川口から攻め込んだ分田合戦、八十里越の三條城合戦、六十里越の魚沼下倉城の合戦が有名である。
これを基にして塩谷世弘によって撰文された千三百字余の文章は『新潟県史』資料編三に掲載されているが元文書は釈迦塚には現在無い。また塩谷世弘なる人物も江戸の人くらいしかわかっていない。他にもこの文書を土台として書かれた書幅が釈迦塚に残されている。文・書とも安積艮斎である。
安積艮斎は江戸後期の儒学者、佐藤一斉・林述斎に学び詩文に長じた。二本松藩の儒官、後に昌平黌教授になった人である。浅野家との関係は、まだ確証は無いが、浅野正八郎は昌平黌に学んだと釈迦塚で伝えられている、そのようなことで知己を得たものと思われる。他にも浅野宛の艮斎の書簡が残されている。
この草稿は延宝二年(一六七四)、浅野次五衛門によって新発田藩に提出された「浅野家由緒書」の記述が根幹をなすものであるが、一方あまりにもよく出来ているため何かを参考にしたものもあったかとも思うが推測の域をでない。浅野正八郎は新発田の儒学者丹羽伯弘の愛弟子でもあるのでその先生から教えを講けたともいろいろ考えられる。
「浅野家由緒書」であるが、越後遺民一撲後七十年余経た頃の浅野次五右衛門(四代)が藩に提出したものを、百八十年後の嘉永七年(一八五四)に浅野正八郎(十代)が新発田藩庁において写し取って来たもので内容については信用出来ると思われる。藩に対してあまり嘘は書けないと考えられるからである。
浅野家の山城国時代の姓は寺本といい、越後入りの後、母(浅野長政の妹)方の姓浅野に改めた。現在、山城国時代の寺本家の存在を示す証拠が見つかっている。京都府伏見区深草大雲院にある逸見正八郎政久(一時逸見姓を名乗る)の実兄忠吉の墓、寺本家開基とされる大雲院、直勝寺の二カ寺も寺本の存在を今も伝えている。
京都府『紀伊群史』では寺本氏を紀伊郡四土豪の一と伝えている。
十六世紀から十七世紀に移る時、越後では上杉氏から堀氏へと、日本では豊臣氏から徳川氏へと権力の移動があった。混乱が収まる前の一時期だけの坂井砦の存在を伝えるのが本文書の目的であると思う。また三條合戦を描いた絵画も浅野家が残してくれた。
この草稿と一緒に作られたと思われる「坂井砦麁絵図」釈迦塚町に現存する、そこで現在の地図と比較して砦の所在地を推理してみたいと思う。
因みに現在の釈迦塚町の住民の大部分は坂井砦の守将浅野氏とその家臣を先祖に持つ人たちであるという。

凡例

本文解読にあたって字体は異字、当て字、旧字はなるべくそのままにした。
変体かなは而はて、江はへまたは、茂はも、者ははとした。句読点、(注)、濁点などは編者(淡路)が付けた。
一段落ちの文節は本文の説明文である、それは原文書のままとした。