『与茂七実伝』に登場する釈迦塚新田名主倅久之助は誰か
2001/10/05 淡路久雄
元禄16年(1703)から新発田領中之島組で水害の際の御用林の伐採、年貢未納、庄屋の不行跡などの問題をめぐって庄屋側と名主百姓と対立し騒動となり、「中之島組騒動」 して歴史に残る事件があった。正徳3年(1713)まで争いが続き名主、百姓側の代表者中之島名主与茂七、脇川新田名主善助、中興野名主小助、池之島名主三太兵衛倅安左衛門、灰島 田名主喜平太が刑死、関係した名主百姓がそれぞれ処罰されるという事件があった。後、藩も非を認め百姓側に立って権力と争った与茂七等は義民としてあがめられ、名誉を回復した。
その事件のことが明治に入り『与茂七実伝』として出版された。その小説の文中に処刑された5人の次に活躍した、釈迦塚新田名主倅久之助という若者が居た。久之助は正徳3年与茂 らが判決を受けた前夜牢屋で病死したことになっていた。一説には親(吉右衛門)に迷惑がかかるのを恐れ自殺したともいわれている。
そこで久之助という若者は実際にいたのかどうか、史実として実証することができないかと思った。今回「浅野家系図 末」という、より詳しい系図を見ることが出来たので、今ま の「浅野家系図 本」と「浅野家過去帳」とを併せて久之助という若者の存在を推考してみた。因みに「与茂七騒動」の資料は藩の命令でほとんど抹消されてしまっているので他からの資 は全くないに等しいのである。
推考の条件としては、名主吉右衛門の倅であること、これは長男と限定しなくともよいと思う、年齢は騒動の期間に17歳から27歳であること、また正徳3年に死去していること などである。
ところが、どの浅野家系図をみても四代吉右衛門には男子がいなかった。5代目を継いだ与喜右衛門は吉右衛門の弟であった、であるから前に述べたように兄弟でも世間では倅と呼ばれ も不思議ではないのである。そこで吉右衛門の兄弟を「浅野家系図 末」と元禄12年(1699)の「宗門改帳」から整理してみた。
久之助の条件に当てはまる人物はうかんでこなかった、年齢的には鶴松が近いのであるが、のちに名を津兵衛と改め見附町に分家して浅野屋の先祖となった。現在の浅記商店の先祖で る。また庄八郎は吉右衛門のあとの5代目名主与喜右衛門となっている。
結論として『与茂七実伝』の釈迦塚新田名主吉右衛門倅久之助は確定できなかった。架空の人物かも知れないし、実在の人物であれば新発田藩が騒動の資料を抹消したように、久之助 浅野家の系図や過去帳から意図的に消されたとしか考えられない。
※吉右衛門の兄弟一覧と騒動当時の年齢(宝永元年)
| 生年 | 没年 | 宝永元年年齢 | 備考 | |
| 浅野粂之助 | 寛文4年(1664) | (1667〜1672) | ||
| 4 吉郎右衛門 | 寛文9年(1669) | (1732) | 35歳 | |
| 亀松 | 延宝元年(1673) | 31歳 | ||
| 鶴松 | 天和2年(1682) | 22歳 | 享保5年見附町分家 | |
| 5 庄八郎 | 元禄4年(1691) | (1734) | 13歳 | |
| 妹 | 池之嶋丸山氏へ嫁す |
附
一方刑死した池之嶋名主安左衛門の子孫は領内払いのところのちに、浅野家に引き取られ一家を立ててもらったと伝えられている。昭和28年まで釈迦塚町に在住した(現東京都)丸山八之十家がそうである。
その理由は吉右衛門の母が丸山家の出自であって、また、妹が丸山家へ嫁いで、重なる縁で浅野家が面倒をみることになったものと思われる。
史実としても倅久之助は別として浅野吉右衛門が「中之島組騒動」で果たした役割は大きかったのである。