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釈迦塚新田百間土居顛末

百五十年続いた水争い淡路久雄
一、はじめに

見附市釈迦塚町と南蒲原郡栄町大字小古瀬との地境に、百間土居と称する高さ一メートル弱の堤塘があり、江戸時代より釈迦塚地内のおよそ三〇町歩程の水田 湛水原因のひとつとなっていた。昭和五十六年、刈谷田川右岸土地改良区によって、貝喰川改修工事が国営工事で完成するまで、双方の利害相反し係争が続いた。

天保年間、釈迦塚新田の用水は蛇島堰から儀右衛門江を引き、一部は貝喰川を堰止めた太田堰から灌概しており、排水路は大江といった小古瀬境を貝喰川< pan lang=EN-US>(大通川)へ流れ出る一本の水路しかなかった。その排水路も数ケ所で堰止められ小古瀬村の用水となり、その堤塘が小古瀬村の洪水時の防水堤となっていた。

そのため、大雨の降るたびに論争となったのが、排水路の大江と貝喰江筋(共に小古瀬村の用水源)、大通川の中曽根堰、本題の百間土居だった。

この地域は低湿な土地で標高九・八○メートルしかなく、土居の高さが一〇・七五メートルと高く、一方の貝喰川の堤防もそれらより高く排水路の貝喰川が増 した場合、水の吐け口が無くなる三角形の土地柄である。もし百間土居と言う堤塘が無かったら貝喰川が増水しても、溢水した水は直ちに小古瀬地区へ流れ込み、釈迦塚地区には湛水する がない。だから小古瀬村でも必死に防水堤としての権利を守ろうとした。大略の地形を図示した。

同じ新発田藩・中之島組であった時代は何事もなく、小古瀬地区が寛政十二年に幕領(桑名藩預り)となった後に百間土居が築堤されたのは、時の領主の力関係によるものとしか考えられない。その後、大正四年に耕地整理が実施されても土居はそのまま再構築された。そこで釈迦 村と小古瀬村が必死に争った百間土居の一五〇年にわたる係争の歴史を探って見た。

二、天保八年の騒動(発端)

このとき百間土居が新設されたと考えられる、最初の水争いとなった天保年間、釈迦塚新田名主浅野正八郎から小古瀬、二俣両庄屋へあてた書翰(天保五年十月十三日小古瀬へ文通下)では、

「以剪紙数啓上候……(中略)-…然者当村より御村方へ相掛候悪水江一件、当八月中場所御立会御見分之儀、当方御役場より御分御役所江御掛合二相成処、折柄御虫食御中陰被仰出御出覧御延引相成、且隣村間悪水の義二付……」

と百間土居の築立には触れず、只悪水江江凌のみ抗議しているので百問土居の築立は無い。

翌天保七(一八三六)年釈迦塚新田名主儀右衛門から新発田藩郡奉行所へ提出された「乍恐以書附奉願上候」には

「桑名御預所小古瀬村ニ而新規悪水土居築立并当村悪水掛字貝喰江筋〆切堰取払方延引いたし、右流水当方田方江流込不軽迷惑仕侯ニ付、先般 添翰を以、柏崎御役所江御糺方願出候…(中略)…小古瀬村ニ而、新規土居築立候得者、聊相違無御座候、字貝喰江筋之義も当村肝要之悪水江筋ニ御座侯処、新規筋立ル土居を往古在来の土居ニ而、百間土居と唱ひ并ニ貝喰江筋ヲ 村用水、紛なく皆取繕、偽之義等申上、品々不法ヲ働、為丈当村大段之迷惑仕候義ニ付…」

とあり、百間土居の築立は天保六・七年と言うことになる。

釈迦塚新田は、四百間と言えば、小古瀬村は百間と言い、悪水除江は用水、新規築立は古来からあるものと唱え、ことごとく相反する申立をした。二俣村の飛地もあ 、小古瀬村、小古瀬新田、二俣村の三村との争いとなり、翌八年三月、芹山村庄屋恒左衛門、戸口村庄屋戸右衛門、小沼村名主保左衛門の扱いにより熟談内済となった。「差上申熟談証文 事」として次のような文書が交換調印された。

溝口信濃守領分越後蒲原郡釈迦塚新田より松平越中守御預所同郡小古瀬村江相掛り、去申六月中同村ニ而釈迦塚新田田方地境より小古瀬村田方 枚通程相隔、凡長四百間程之間新規悪水除土居築立、其上釈迦塚新田悪水吐字貝喰江筋〆切悪水落差塞、猶又小古瀬村枝郷中曽根新田ニ而字大通川平水の節、用水取入之ため三ケ所ニ〆切 仕置、右川上村々茂同様用水取入堰仕置、出水之節者〆切取払候儀古来より仕来ニ有之、同五月中より之出水ニ而川上村々者〆切取払候得共、同村ニ而取払下申、右故大通川水相湛釈迦塚 田地内江溢込迷惑至極いたし候ニ付、右新規土居并字貝喰江〆切共急速取払大通川〆切取払方之儀も、古来より仕来之通上堰取払次第亦急速取払侯様被仰付度旨、同六月中添簡ヲ以柏崎御 所江罷出候処、相手小古瀬村之者共御呼出御吟味御座候処、同村ニ而申立候者悪水除土居長四百間程新規築立候等と申議決而無御座、字百問土居と唱往古より有来之場所ニ有之、地低之村 ニ付纔之出水ニ而も上郷より押流候水湛田畑水腐仕侯ニ付、右土居ニ而防候儀ニ御座候、然ル処毎以出水之節者釈迦塚新田之者共土居切払迷惑為致侯ニ付、出水之度毎昼夜番人附置候処、 申五月廿八日之大雨川々出水刈谷田川通堰切四ケ所有之、家居床上候躰銘々其用意ニ引取候透を見込、夜分同村之者共大勢罷出理不尽ニ切払候ニ付、不取敢村方一同罷出相防右様不当之仕 間々有之候間、以来不法之働不致様新発田御役場江御掛合被成下度旨其節柏崎御役所江奉願候処、小古瀬村ニ而人足四、五百人差出新規土居築立候等無跡形茂謀斗申上候段不得其意ヲ、在 之土居釈迦塚新田之者共理不尽ニ切払候ニ付其節右場所相防候而已ニ而新規普請者勿論外ニ人足等差出候儀決而無御座、且同村悪水仕江筋小古瀬村ニ而〆切悪水吐と申立候江筋者往古より 古瀬村用水江ニ相違無御座候、釈迦塚新田悪水吐江之義者字大通川江吐落侯場所ニ門樋伏置一方ニ相極有之、然所同村田方水湛ニ相成候迚、小古瀬村用水路字狭田江を釈迦塚新田悪水仕字 喰江筋等と新名を付、弥同村悪水吐ニ候ハゝ、江浚普請等之節人足可差出筈之所、往古より人足等差出候儀者勿論何ニ而も組合候義無御座、字大通貝喰川江平水之節用水取入之ため堰留、 樋伏置候儀相違無御座、雨続川筋満水いたし候得者新発田御領分三林村ニ而貝吹立、右を相図ニ切払候者御同所御一領之砌より約諾致置候儀、異変不仕捨置候両者却而江丸押切可申、右候 者田畑水腐仕候ニ付聊等閑侯儀曽而無之旨申上、双方申争難御決、小古瀬村ニ而御立会御見分奉願候ニ付、御返翰ニ相成、釈迦塚新田之者共帰村仕猶得と取調候処、青山九八郎御代官所同 二俣村地内凡長三拾間程も相掛居候ニ付、右村庄屋万之助方江新規土居取払方追々引合ニおよび候得共、彼是申紛取払不申、同村之儀も小古瀬村江馴合釈迦塚新田為及迷惑ニ侯ニ付御三分 立会御見分之儀同村より奉願、今般御立会御見分として御出役銘々地境論所之場所御案内仕巨細御見分有之、当村御吟味中ニ御座侯処、扱人立人御猶予奉願上熟談内済仕侯趣意左ニ奉申上 、

釈迦塚新田ニ而者新規築立候土居と申立、小古瀬村ニ而者在来字百間土居と唱候場所、同村地境畔当時有形より論所江見通シたとへば壱尺高ニ ハ、五寸高ニ馬踏切落且敷之儀者有形ニ而定杭振立、二俣村之儀も右ニ准シ取斗、釈迦塚新田ニ而も地境畔ニ定杭を立、且同村ニ而大江之江丸北之方江上置いたし候由申立候場所ハ有形之 江丸左右江定杭を打、同所続上用悪水路西之方田地壱枚通上置之分者熟談之趣意として取払、是非定杭打立候上都而定杭之通相守以後異論ケ間敷義無之様取極候事、

但定杭朽腐候節者双方立会之上元形を以杭木振込紛敷義無之可致極之事、

小古瀬村地内水行いたし候江筋之儀釈迦塚新田ニ而者字貝喰江と唱、同村悪水為仕候旨申立、小古瀬村ニ而者同村狭田郷用水江と申樋方伏置候 所、此度熟談行届候ニ付用悪水之無差別樋方〆切共取払江浚藻払等之儀者小古瀬村ニ而仕来之通取斗用悪水行無差支様仕候積取極侯事、

字大通貝喰川中曽根地内ニ伏置候門樋之儀、出水之砌上郷村々ニ而〆切取払候節、三林村ニ而貝吹立候ハ、

先規之通右を相図ニ小古瀬村ニおゐても三ケ所堰切払可申旨猶亦取極候事、

右之通今般熟談内済仕候上者偏ニ御威光と難有仕合奏存候、然ル上者双方重而異論ケ間敷儀不仕、右一件ニ付毛頭御願ケ聞敷義無御座候、依之双方連印済口證 奉差上候所如件、

天保八酉年三月

願方(溝口信濃守領分釈迦塚新田百姓惣代・組頭・名主)

相手(松平越中守御預所小古瀬村百姓代)

( 同 同新田組頭)

( 同 善久寺新田組頭)

( 同 中曽根新田組頭)

(青山九八郎御代官所二俣村代表百姓代・組頭・庄屋)

出雲崎御役所

(以下扱人奥書、奥印、釈迦塚新田百姓連印省略)

一応内済は見たものの一尺高の所は五寸と半分に成ったが、土居そのものの存在は認めさせられた釈迦塚側にとっては、敗訴同様の内容であったし、相手側は天下領 して実力を誇示した談合だったであろう。

三、万延元年の一件

次いで安政五年(一八五八)「釈迦塚新田悪水江浚、等閑にした為迷惑の趣有」と又柏崎代官所へ訴訟を起し、ほぼ前回同様の趣意で万延元年(一八五九)示談が成立した。只土居高さがより正確に田縁より何寸高と規定された。取り交わされた「差上申済口證文之事」には、「前書取期之外天保度熟談規定通取守、双方共新規勝手之義 致間敷事」とあって、鍋島村名主仁左衛門が?入となり、天保の取決めの再確認を行っている。

四、明治十五年

再度の約定に拘らず、またまた「百間土居定杭取払井字狭田江浚等閑置候件ニ付」と釈迦塚新田が新潟治安裁判所へ訴え、中西村佐野善次、善久寺村森山健五 の両名周旋に基き和議解訟した。その約定は一〇条から成り、天保、万延、両度の約定を基にさらに細く規定している。

「第一条、字百間土居定杭の義、天保年間ヨリ已ニ数十年ヲ経過シ、定杭腐朽又ハ全ク無之箇所多分有之、天保年間ノ約定ニ照シ詳細取調候義 容易ニ付、更ニ熟議ノ上高幅共当時有形ヲ以テ、原被立会定杭振立可申、依テ将来被告村々ニテ自己ノ専断ヲ以テ修理可致、且原告ニテ時々見廻り万一高幅共定杭、外の場所有之候ハバ、 告ヨリ照告次第被告村之立会ノ上定杭通引直シ可申事、

但定杭ノ義、天保度ノ古形ニ做へ長拾間毎ニ振立可申、幅杭も右ニ做へ振立候事」

以下要約して示そう。第二条は本坑は石柱とする事。第三条は年一回見廻り腐損せるは両者立会の上振替る事。第四条狭田江幅を一尺広げ障害する樹木は原告 り照会次第伐木する事、大江は万延度取極より三寸深くする事。第六条大浚の義は五ケ年をメドとする。第七条大浚の人夫才判共原被折半とし、揚土等丁嚀に始末して耕地に障害の無き様 する事。第八条江筋上流から下流に至るまで用水堰留又悪水堰払等は勝手にせざる事。第九条大江江浚は五拾間毎両者受持とする。第十条三林村飛地の大通川修築が行届かず、溢水する場 は両者にて三林村へ修築掛合する事。

「右ノ通リ相互実意ヲ以、示談條項締約スル以上ハ決シテ違変不致、向後確守可致、依テ別紙図面ヲ製シ、双方戸長、村惣代及和議立入人一統署名捺印スル交 證如件」。和議の内容は以上である。

五、大正四年耕地整理

大正四年に福島村耕地整理組合、坂井村耕地整理組合が結成され耕地整理が成される事となる。この耕地整理により紛争地点の貝喰川に小古瀬、中曽根両村は 水取水のために中曽根堰が設置されこの堰により釈迦塚地内が湛水する様になり、中曽根堰より貝喰川新川橋に至る間を釈迦塚専用排水路を新設し、この排水路と交差する小古瀬に至る用 路構造等について、大正四年十月十一日に契約証が取り交わされている。その契約は二項から成る。

「今般耕地整理施行ニ伴へ相互便益ヲ計リ、左ノ各項ヲ契約ス、

一、福島村大字中曽根、坂井村大字釈迦塚地先ノ貝喰川ニ新設スル中曽根閘門ヨリ郡道下沼線新川橋ニ至ル排水路ハ釈迦塚専有権利ニ属シ是レ 設備スル工作物等ハ釈迦塚ノ承諾ヲ得サレハ実施スル事能ハサル事、

(コンクリート)

一、新設スル中曽根樋ヨリ福島村大字小古瀬ニ至ル用水路ト前項ノ排水路トノ交叉点ニ混凝土水閘ヲ新設スル事、

但シ水閘巾、水閘底ハ釈迦塚ノ指定ニヨル事、

この時狭田江(釈迦塚悪水)は釈迦塚専用排水路となり、また百間土居が両村地境に従来通りの高さで構築されて、高さが海抜三五尺五寸となり、以後海抜で表示されるこ となる。

耕地整理終了後も小古瀬郷用水路が釈迦塚排水路を堰止める形で掛樋が造られたため耕地の湛水がまたまた常習的となった。そのため小古瀬用水掛樋を釈迦塚排水路 暗渠樋管を新設する契約が成立した。要約すると、樋管は大正十一年五月迄に設置し、但樋管の上に挾堰を新設する事、設計は坂井耕地整理組合の承認を得る事、経費の内半額は坂井耕地 理組合より福島村耕地整理組合へ寄附する事、両組合が解散する場合は善後策を協定する事、最後に双方の福利増進に努むる事と結んでいる。樋管設置により釈迦塚排水路から用水取水の の常時堰止が不要となり、若干の排水改良となった。

六、昭和六年の協定

かかる水争いは昭和に入っでもしばしば論争を生じた。特に出水のたびに百間土居に設置された定杭の高さ(海抜三五尺五寸)が問題となったり、小古瀬部落が上流よりの溢水を防ぐために上置きしたり、草刈りを怠ったりで、常に両部落との間に紛争が絶えなかった。

昭和五年大雨により百間土居溢水により争いが起り、翌六年八月五日確認の意味で協定を締結した。

協定書

一、協定線の高サハ従来ノ通リ海抜参捨五尺五寸トシ、標準ハ五ケ所ノ標石ヲ以テ定ム、但標準ノ高度ニ変更ヲ生ジタル場合ハ両字立会ノ上実 シ復旧ス。

二、降雨ニ依ル増水ハ小古瀬部落ニ於テ協定線上ニ上置ヲ為サザルコト。

但シ釈迦塚排水樋管ノ設備不完全ナル為メ、逆流スル場合ハ協定線上ニ上置ヲ為スコト。

三、貝喰川釈迦塚地籍ノ場所ハ釈迦塚部落ニ於テ常ニ設備ヲ完全ニスルコト。

四、前項同様小古瀬地内ノ場所ハ小古瀬部落ニ於テ常ニ設備ヲ完全ニスルコト。

昭和六年八月五日両村代表署名印

ちなみに昭和六年の大字釈迦塚協議会録には次の様に記され、事の重大性を現わしている。

協定書ニ関スル件

昨年ノ溢水問題以来紛擾ヲ醸シタル百軒土居ノ大問題ニ関シ、大字小古瀬トノ間ニ数旬ニ?リ交渉シタルモ、彼等寧奸邪智ノ事トテ吾正義ノ主帳モ容易ニ容ルト ロトナラズ、為ニ遂ニハ一大舌戦ヲ交へ今ヤ火花ヲ散ラシテ戦ハントスルニ到リ、見附、三條両署長ノ調停ニ依リテ吾ガ代表者各位ノ綿密ナル対策ト俊敏ナル外交手腕ト正義ノ主張トニヨ 、又一般部落民ノ絶大ノ応援トニヨリテ、吾ガ大字ノ主張ハ遺憾ナク認メラル、トコロナリ、有利ナル條件ニ付協約書ノ交換ヲ得タルハ大イニ喜ブベキ事ナリ、依リテ茲ニ協約書交換セル トヲ録シ大字重要書類中ニ加ヘタルコトヲ後日ノタメ記載スルモノナリ。

これが釈迦塚村民の正直な気持であつだろうと思われる。

七、昭和三十七年

それ以後も毎年の様に大雨の降るたびに水争いを繰り返した。十九年、三十六年、三十九年と刈谷田川と破堤があり、収穫皆無に近い状態になったこともあり 三十七年七月末、梅雨末期の集中豪雨で貝喰川堤防が溢水し釈迦塚地内の水田に流れ込み、湛水が長引き遂に百間土居を越え小古瀬地内に流れ始めた。湛水も一週間に及び水稲も腐り出し 。それでも減水せず、その中で土居堤防が協約通り草刈りが実施されておらなかったので、釈迦塚側で草刈りを行った。草刈りは協定違反ではないとの解釈だった。

それを見た小古瀬側では釈迦塚が協定違反とするならと、堤防上に土盛りを始めた。釈迦塚も黙認できるはずもなかった。一村総出で鎌・鳶・鍬等の得物を持 て現場へ駆け付けた。現場は三條警察署員だけだった。小古瀬側は引き揚げており衝突だけは免れた。時代難れしてはいるが、真実の事件だった。自分達の権利は自分達で守ろうと行動に たのだった。それほど釈迦塚地内の排水には土居が邪魔だったし、小古瀬側にはより有効な防水堤だった。

その後翌年五月まで、昭和六年の協約書、さらに明治十五年の約定証を元に折衝が続けられた。五月三十日に至り昭和六年の協定書の各項を厳守することで両 落代表の間で確認書が交換された。確認を証するために調停者として交渉に立ち会った三條耕地出張所長、見附市長、栄村長、今町郷土改良区理事長、貝喰川土地改良区理事長が署名捺印 加わった。

その際次の項目が「申し合せ事項」として追加された。

一、百間土居の清掃日は毎年六月十五日及び七月十五日に小古瀬部落に於いて実施するものとす。

二、清掃日の立会責任者は三條耕地出張所長とし、耕地出張所の要請により見附市長並びに栄村長が立会いするものとする。以上。

しかしながら百間土居はかたや排水の障害となり一方で有効な防水堤として現在もなお存在するのである。昭和四十五年国営刈谷田川右岸農業水利事業が着工 れ、貝喰川始め各幹線排水路が整備される事になる。また両部落が属していた今町郷土地改良区、貝喰川土地改良区が昭和五十一年合併一本化して以来現在まで目立った騒ぎが無くなって いる。

ところが昭和五十六年刈谷田川右岸土地改良区の用水改良事業で小古瀬用水路が百間土居上、さらに六十センチメートル程も高くコンクリートで造られる事に り、いかに貝喰川の排水が良くなり中曽根堰が撤廃されるとは言うものの、いままでの経緯からすればとても釈迦塚側にとって承服できるものではなかった。いざ出水の節はさらに洪水水 が高く成ると予想されるからである。

土地改良区理事長との折衝が続くが、「同じ土地改良区に成ったのだから釈迦塚だけが被害を受ける様な状態にはさせない。若し一方だけが冠水が続くならば しく作る用水路は破壊しても良い」との一言で用水路建設を認めた。百間土居に関する協約書の各項は有効のまま、事実上の百間土居の嵩上げは成された。刈谷田川の決壊でもあれば新し 用水路がまた紛争の火種となるだろう。

八、おわりに

貝喰川改修も国営で完成が近づき排水も完壁と言っても良いほど良くなった。かっては騒動のあるたびに小古瀬地区から嫁いで来た人が婚家を追い出されそう なったり、親類づき合を止めたり、様々な事があった。これで天保七(一八三六)年以来百五十年続いた水争いが終止符と成る事が両村住民の願いである。

余談ではあるが天保・万延の事件当時名主として事件の折衝に当った釈迦塚新田名主正八郎が天領の名主の横柄な態度に憤慨の余り自殺したと語り伝えられて る。死後、村びとは祠を建て水徳明神として祀ったが、いまは諏訪神社内に合祀されている。

最後に本文に引用した文書は全て釈迦塚区有文書で、閲覧許可された釈迦塚町区長西氏の御協力が有ったことに心から御礼申し上げる。