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坂井砦蹟碑御撰文願草稿
安政4年未巳孟夏十五日 浅野正八郎藤原政悳
坂井砦蹟の碑文御撰奉願口上覚
越後国坂井砦は蒲原郡坂井村に在り。
坂井の地は未の方20町計今町、叉3里余長岡城あり、申酉の方2里余与坂城あり、戊亥の方2里余地蔵堂町、又五里を隔ち一ノ宮伊夜日子神社に至る。丑の方三里にして三条町 り、寅卯の方大面町、辰巳の方見附町なとへは僅に一里計なり。

真地は今の村居の南僅に隔ち、蛇島潟の北にて丸田郷と唱ひ、字舘という陸田は本丸の趾、続きて舘ノ腰、馬場野、乗込、鐘場、蔵屋敷などいう外郭の趾多く水田となる。郭外南西は水 にて蛇島潟といひ、菱潟という、その中に福田川の流れあり、東方(ママ)は平地にて刈谷田川の急流を帯ひ、郭北に民家ありて前には往来を通し人馬の掛引自由を得、後ろ又熊潟という巨沼 れり、且遠く町里を郭て南より西に猿橋川、信濃川の大河流れ、北方に五十嵐川の山川あり、東面は二十余町にして皆山嶺連り、名にし負ふ長尾氏上杉家等の名将勇士の旧寨なんと所々に み頗る要害の地なり、件んの砦は慶長五年二月芝田城主溝口伯州侯

本藩の顕祖公なり、溝口伯耆守秀勝と称し奉る。天正九年辛巳四月、織田右府信長より若狭国に於て采地五千石を賜り、高浜に在城。天正十一年癸未四
月加賀国大聖寺へ四万四千石にて移封、慶長三年戊戌越後国主上杉中納言景勝奥州へ国替にて移られ、同年豊臣太閤秀吉より顕祖公へ越後国蒲原郡にて六万石の地腸りて芝田城へ御入 ある。
封内警衛の為にこれを置きて逸見正八郎政久及嫡子浅野儀右衛門政邇に命じて守将と為し給ふ所なり
逸見政久は本苗寺本氏にて生国山城国、父は極楽寺城主(洛南深草郷)寺本兵庫頭忠直の三男寺本内膳正直寿、母は浅野長政公の妹なり。永禄十年丁卯に生れ幼名稲津長丸と称し、母と共 外舅浅野家に養はれ、十五歳の時天正九年辛巳四月、藩の顕祖公若狭国高浜に御在城の時故ありて長丸父祖よりの世身を大勢召具し、公の御もとに来り客となりて、公の加冠にて元服をな 御父君諱政の一字及び御紋をも賜り、又逸見氏は公深き御由緒の訳ありて逸見の家名再興を命せられ公其臣加藤氏の子御姪なるを御猶女と為して政久に嫁せらる如く御息遇を蒙むる事屡々 り、天正十一年癸未公越前国敦賀等へ御働の先陣を命ぜられ、同年四月公加州大聖寺へ移封ありて政久に能美郡の内にて采地を賜る、同十五年丁亥分九州へ御出勢其外追々御合戦の毎□従 十騎ともに戦功を励み、慶長三年戊戌公又越後国蒲原郡新発田城へ御入部のときも政久父子世臣大勢卒ひ従ひ来り、同五年庚子二月坂井砦の守将に命ぜられ居城せるか越後国に住する初め りける。抑寺本氏は藤原姓にて大職冠鎌足の苗裔鎮守府将軍利仁四十世の孫忠元南北御譲位の時功労ありて山城守に任し、城州紀伊郡極楽寺城に居住、其父稲津尾張守光忠尾州知多郡寺本 在城せるに、因りて父の在名を称ふ、是を氏の始祖と為し世々極楽城に住す、忠元より八世兵庫頭忠直は万松院殿源義晴光源院殿源義輝の両将軍家に仕へ、永禄八年五月三好義継、其臣松 久秀等謀逆御所攻の時、将軍家御生害忠直も殉て戦死す、忠直の嫡男兵衛尉直勝家を嗣ぐ、永禄十二年三好山城入道等将軍家源義昭に叛き、六条河原戦闘の時幕府に在りて先鋒の命を蒙り 敵を殺戮し大創を負ひ軍中に卒す。其子内蔵允吉忠時に六歳父の遺蹟を継ぐ、天正元年将軍家源義昭織田信長と不和にて西国へ落剥、この頃吉忠幼弱にして勢ひ振はす志を得す、終に極楽 を退城す、其子孫今に城州、摂州、芸藩等所々に住す、忠直の三男は直寿にて天文十二年癸卯二月極楽寺の城に生れ頗る勇知あり、内膳正に叙し、故ありて江州に閑居、又浅野長政公の舘 暫く客となり後東照源君に仕ひ奉る、慶長五年庚子六月関東に於て病て卒す年五十八歳、浅野氏を娶り一男子を生み長丸と名つく、是政久か幼名なりき。

 抑、来由を考るに慶長二年の春、越後の国主上杉中納言景勝豊太閤より奥陸の地百二十万石を賜り、春日山城より会津へ移転あり、同五年庚子石田治部少輔三成謀叛を企て、会津の景 、三成と一味あるの聞えありて世上穏やかならす、殊に越後はかの上杉の旧国にして其旧臣流浪せるか国中ここかしこに潜り居て、この機に乗し蜂起の萌し見え、穏かならされにや。

越後の国の事は、公方宝筺院源義詮殿の時、貞治五年二月上杉民部大輔憲顕に賜りてより、慶長三年戊戌に至二百三十五年か間領知せし故、今会津へ移住ありては家中上下迷惑せる なりともいへり。

同年二月藩顕祖公窺うに、このさかいの地に新砦を縄張ありて政久主従を籠め置る、この坂井の地は中之島郷、大画郷に跨りて芝田城より二十余里の道隔ち、又会津の領地に程遠からね 事起れりとて頓の防ぎも得叶はず、且は領地の固め且つは非常防丈の為めなるへし。

顕祖公はその頃巧者の老将と世に伝うる所の事実これらにてもおもひやるへく、次に其任に当れる政久か人たることも思ふべし。

 はたして同年秋、景勝謀叛によって征伐せらるへき軍議ありて、堀秀治は北陸道より奥に攻入へしと仰下され顕祖公は大坂ににいましけるに、六月十四日津川口より会津表への先陣を ぜられ、帰国ありて一左右次第進発あるべき用意あり。
 徳川神君には七月二十三日下野国小山迄発向のところ又石田三成か計ひにて豊臣秀頼の催促として山陰、山陽、南海、西海の軍勢大坂に馳来り神君を失ひ奉んとするよし小山の御陣に注 ありて、東西一時に軍サ起りけれは世子秀康卿に宇都宮を守らせ、景勝を押ひ先ツ東国の軍を止め、東海、東山両道に分って関か原へ攻登らせらる、去程に越後国は上杉の旧恩を慕居、且 成より密に直江兼続山城守か方へ来る子細有て、兼続より浪人共と語らひける安田平八郎定治、柿崎源左衛門尉景則、丸田左京進清益、斉藤藤八郎利実、加治右馬介資綱、八尾板主膳亮光 、竹股壱岐守、万願寺源蔵、宇佐美民部少輔勝行、其子藤三郎定堅、後兵左衛門尉、七寸五分因幡、朝日采女、荘瀬新蔵等上杉家の勇士共、皆越後に潜り居しか、是に一味し譜代の家人を 寄せける禍に究竟の兵八十余人鉄砲二千挺そ集りける、その上七月下旬直江方より斉藤三郎左右衛門、長尾喜左右衛門、多田浦伝蔵、朝日蔵人を差越しけれは、七月廿五日柏崎、三条辺を 、在々所々一同に一揆を越しけるに国中の民百姓共古主の馴染を慕ひ、又直江のすすめにいよいよ力を得て一揆の者起り立て潮の湧にひとしけれは、丸田左京、三股主膳樋口與左衛門、山 長門守、宇佐美主水、有坂斎宮、石
坂与十郎、五智院の海竜庵渚郡に先だち討て出て先ツ春日山を始めとし所々の城を乗取らむと勝鯨波をこそ揚ケたりける。
この頃越後の国は慶長三年堀左衛門督秀治賜りて上杉家に替り春日山を居城とす(頸城郡)、其家老堀監物直政か嫡子雅楽介直清は三条の城(蒲原郡)、其二男丹後守直寄ハ坂戸の城(魚沼郡)、 子田八右衛門基昌は栃尾の城(古志郡)、小倉主膳政熈ハ下タ倉の城(魚沼郡)守らしむ、此他秀治の弟堀美作守親良長岡に居し(古志郡)、芝田(蒲原郡)には顕祖溝口公本庄には(今の村上岩船郡) 上周防守義明各城郭を構ひ、武威厳然たりさるをかの一揆はら七月廿七日堀監物と戦ひ、宇佐美主水、有坂斎宮助、神得刑部、七寸五分因幡等、妻有の庄に引退き、丸田左京、斉藤八郎、 尾喜左衛門、朝日采女と一手に成、八月朔日下夕倉の城へ押寄手痛く働き城主政熈はじめ相随ふ六拾余人を討とめぬれと堀直寄か父監物を見舞春日山に有りしか急き坂戸へ帰城し、一揆共 千余り下倉城を攻巻よし聞き、ひとしく後詰の為め朔日の夜半に居城を打立夜通しに坂東道五十四里を山越えなし明くる二日辰の刻に下倉の手前一里計りに駆着き、新手の勢に切立られ物 神得刑部、遠藤讃岐守以下八人迄戦死し、能兵三百二十余人を失ひ再び柿崎、宇佐美、斉藤、丸田、朝日、満願寺等敗軍を集めて又復戦ひ、宇佐美主水、七寸五分因幡、を初め頭分拾参□ にて其内弐百人計り討死し一千余人追ひ討に討取らる、されとも寄手丸田、柿崎、朝日、八尾板、有坂、斉藤、庄瀬、満願寺、はしめ残党を集め八千余人静々引払ひ、此度は直寄をさしお 手分を為し、海の手山の手押通り、水原、加治、安田等と又一手になり其勢二万余三条の城へ攻寄せ、十重二十重に取巻て竹束を付井楼を上ケ大筒小筒討放ち飛鳥ならでは通路なし、扨後 の請手とし有坂、斉藤、竹股等八千余にて半里こなたに陣を張る、此時逸見正八郎政久は坂井砦に盾籠り、中之島大面両郷の百姓ともをとり鎮め充満せる一揆はらを□へ要害堅固に守りつ 、従臣大津勝右衛門、河村勘兵衛等をして其急を芝田へ告く、然るに三条の城主直清ハ一揆押寄ると聞、大に恐怖し家老山中兵右衛門、青木某を残し置父の直政春日山に在りし許へ除たり るに弟直寄とは雲泥に違い居城を捨、親を頼みて来る事云甲斐なき次第なり、已レ雅楽介日本一の臆病ものめ舌喰い切て死ねかしと怒かられて直清赤面し其座より馬に打乗り、三条さして げ戻り、五里隔てたる高山の要害に陣を取、芝田、本庄へ加勢を乞たりけるを□有坂斎宮助物見を出し置、直清か使二人まで生捕り首を刎ね獄門に懸たりけれは、直清詮方なく禅僧をかた ひ重て芝田、本庄へ介の後詰を乞ふ顕祖溝口公及ひ村上義明も心得候と頷掌して打立つつ溝口公は老将にて巧者にましましけれは我領分にも一揆の起る事あらんと毛呂治郎右衛門、窪与左 門、戸井半左衛門を遣し領内百姓共の人質を取せつゝ芝田の城へ入させらる、この三人七日町を過で河を渡ける所に渡し守寄合、忽ち窪与左衛門を切殺せは毛呂戸井の二人を川をおよぎ越 助り来りて此趣を溝口公に注進なしけれは、されはこそ我か領分も景勝に組せりと覚ゆ、先ツ是を打平くへきとて其勢七百余卒ひ新発田を出て三里行て分陀川に陣を取、使者を本庄へ遣し 村上義明へ申させけるは一揆に国中一味と見えたりによって刈田いたし、居城へ籠め後出馬いたすべきよしなれは義明も尤と同く刈田働して後、其勢千余、本庄こそ打立ける、一揆方には 吉、三条、万貫寺、庄瀬、水原、加地等八千計五泉に陣を取り、密かに三百人を遣し草むら笹はらの内に隠し置、溝口公を待かけける、芝田の先手ハ世馬太郎兵衛三百余にて進み来る、川 に新らしき不浄の多きを見咎め後陣へ呼りけるは伏兵計略にあらん、草捜しすべしとて足軽百人計り弓鉄砲を以て草むらを射立ければ、案に違ハす伏兵ともこらへかね一度にどっと立ち起 引き取りけるを芝田勢追いかけ追いかけ百五十弐人討ち取れとも味方にも又手負い死人多かりけるに一揆の者は分陀川打越し二里行きて橋田の要害に入る。
芝田勢これより水陸二タ手に成りて
溝口公は陸路を進み先手勢馬太兵衛溝口太郎八は船数十艘にて水の戸口より進みけれは一揆共は敵を双方に請、叶ましとや重いけん橋田の城を打ち捨て法花山へそ取登ける。溝口公は橋田 要害をとり、橋太山の峠にて大篝火拾余ヶ所に焼で後詰のよしを三条へ見せけれは三条の城にも火を合せ通夜篝火を焼たりける、
八月六日には村上義明千餘にて本庄より安田野に来り陣を張は神子田基昌三百餘にて栃尾の城を出て後詰にそ趣きける、翌七日には芝田本庄一手になり三条より三里こなたに陣を取り、又 火を焼き後詰め近づきたるを三条の城中へ知らせけり、城主直清は先日より大敵三条を取り巻き由を聞いていまだ高山に山取り居て留守なれども城代山中、青木大剛の兵者にて城をもちこ へ昼夜防ぎ戦いて一度も不覚を取らず、寄せ手大軍たりと雖も長々の合戦につかれはて、且つ後詰めの近づきたるを見て引く心地付きたらん、是必勝の時なりと八日の暁精兵弐百餘人切っ 出て山中身命を捨てて真っ先に駈け入る、一揆の物主安田兵八郎黒保呂をかけ爰をのがれしと挑み戦いて継下にて打ち死に、又百十余人討たれしかは、寄せ手騒ぎ立て三里程も引き退く、 中この旨を直清に告げたり蹴れは大いに悦び一騎駈けに乗り付けて三条の城へ帰りけるに、引き続き神子田基昌も一揆を駈ちらし同じく城中へそ籠りける、一揆とも今朝不覚の軍して敗軍 し事無念に思い、この大軍にては堀左衛門督溝口、村上一ト手になり来る共なとかこの軍に負くへきやとて、亦三条の城へ取り詰め火花を散らして攻め戦ふたれは三条の城大敵の為、いよ よ危急に及ぶのよし聞こえけれは、正八郎政久は嫡子儀右衛門政邇に坂井砦を守らせ、手勢を分けて三条へ趣き、芝田の援兵に馳せ加わらんと一之木戸にて勇戦す、時に堀監物直政は三千 にて春日山を打ち立て、八里押して柏崎に着き、芝田本庄の勢も人数を寄せ東西より立ちはさみて近づきけれは一揆共は兵糧も尽き後巻は近付けぬ旁こらへかたしとて、三条城の囲みをと 、各々小屋に火をかけ陣払いし皆津川の城へ集まりて再び打ち出るへき色もなく潜りかへつて見えしとそ、就るに九月十五日三成の関ヶ原の軍破れ又景勝も会津にて利を失いけれは、津川 たて籠る一揆はら詮すへなく皆散りじりに落ちうせたり、かくて越後の兵乱もやや鎮まり天下一同
神祖の御盛徳に伏し、全く御世革りて軍旅の事もおのつからに非常の備えとなりしかは政久父子も世につれて民を撫育し従臣をして屯田をなさしむるに年を重ねますます御代治まりで政久 嫡政邇家を継きての後、元和四年戊午
松嶽公(顕祖公の御嫡男溝口伯耆守宣勝公と称し奉る)の命によりて坂井砦を廃し、従卒を近邑へ分け遣し田畑を開かせ百姓の業を習わせ

上新田、下新田(今の今町辺)、大新田(今の坂井村始め近辺とも)、茂右衛門新田(今の坂井新田)平右衛門新田(今の小古瀬七ヶ村)、はじめ蔵内村、帯織、福島村、一ツ屋敷新田辺の村 に移り民と為る。

かつて屯田の地を以て一村を立つるの経営をなし、当釈迦塚新田の地を草創采邑に賜り、寛永十三年開墾全く就り、旧臣数十人(旧臣弐隊一隊廿五人ツゝ)と共にこの地に来たり移り、坂井 を除きし古材を用い居宅を建て、子孫永住の基業を定む。

四世甚太郎政綱か時故ありて明暦二年この采地を辞して
君侯へ上知となし又幼少にて父祖の蓑裘を継ぎかたし旧臣数十人を村民と為し其身は民間に落剥し里正となる、寛永十三年坂井砦お古材を以て建てし居宅今に現存す。

時移り世改まりて遠き島根までもいよいよ泰平の徳化に浴し、件の砦跡塁塹も追いつきて開しを農民の歌笑は兵馬の音にかはり忝稷のいかめしく立てる見ては旌旗翩翻たる古を想像る。 神祖の御武徳今に二百五十余年かかる太平豊饒の聖代に逢い、旧臣の子孫と物語て国家の恩隅にむせび時に感じ砦趾に逍遥して祖宗の功労を仰ぎ懐古に堪えず彷徨して去るに忍びざるあま 、其事績を委しく捜索し、又其概略を記し大儒先生より文章を乞い得て一石刃□り是を砦蹟に建て後世不朽に伝えんととす、是いたずらに事を好むにあらす、祖先常に祖宗の勲労功徳を思 祭祀を永く忽かせになすべからざる為なり。
祭統日子孫の守廟社稷は其先祖無美而称之是証也有善而弗知不明也知而弗伝不仁也此三者君子の所耻也あなかしこ仮初めの事にあらず、安政四年歳次己未孟夏十五日、
越後釈迦塚新田浅野正八郎藤原政悳共甫誠政惶謹識