前号のあらすじ
数年前、東京都渋谷区にある太田記念美術館で開かれた「浮世絵歌麿特別展」に出品された一枚の短冊に「釈迦塚」の地名があった。 品には栃木と歌麿という解説が付けられていたが、おかしいと不審に思われた国際浮世絵学会会員の浅原氏が、探索された結果、釈迦塚とは越後釈迦塚村のことでは無いかと思い、確認の め、私あてに照会された。釈迦塚村の越天庵とは、まさに釈迦塚新田名主浅野儀右衛門のことであった。短冊には、「越天庵うし(大人)のみもとに杖曳く」とある。歌麿は釈迦塚を訪問し いたのだ。歌麿の釈迦塚訪問は事実であった。降って湧いたような情報であった。
紹介した歌麿の短冊は詞書に「越天庵うしのみもとへ杖曵けるに歌にこころさし深さを」とあり、歌は、「釈迦塚や大恩教主狂歌仏うた念仏の絶えぬ此里」とあった。
見附郷土誌十二号に、「歌麿が釈迦塚に来た」、という拙文を掲載した。あれから一年経ち、新たな資料を発見することが出来た。それを報告することにする。平成十一年は、釈迦塚 は七年に一回の釈迦堂本尊の御開帳と開村四百年記念事業の一つとしての記念碑の建立などがあり、多忙な一年であった。八月十七日の御開帳には、県外に転出された旧名主浅野家一族の 、歌贋の釈迦塚訪問の事実の発見者浅原雄一氏と御茶の水女子大教授の真島氏の御ふた方も参列され、有意義な法要となった。真島氏は「浅野家由緒書」にもとづき熱心に調査された結果 山城国深草(現京都府伏見区深草)に浅野家先祖の墓所を発見された方である。なお当日は大勢の参拝客で賑わった。当日、浅野家に、釈迦塚から持参された資料類の閲覧をお願いしたところ 見てもらいたい物もあるから浅原氏と一緒に、とのことで後日の訪問を許していただいた。十二月上旬になって、浅原氏と一緒に浅野家を訪問した。資料の方は一週間も前から用意してお て下さったという。資料の主なものは狂歌関係の色紙、短冊だけでも三百七十点余りもあった。余りの多さに圧倒され、識別するのがやっとで、一日の滞在では何もできない状態だった。 れでも、歌麿の短冊と、当時の江戸狂歌界の主立った人たちの作品を写真にとってきた。どれも越天庵宛に詠まれた短冊の類であった。本題の歌麿の短冊であるが、やはり浅野家に存在し 、前出の「釈迦塚や〜」に始まる短冊と同じ紋章入りの短冊を使用してあった。江戸から持ち帰ったと思われる短冊には三つ折りの折り目が付いていたが。荷物を小さくするために折りた んだものであろうが、歌麿の短冊には折り目が無かった。これを歌麿の浅野家訪問の証とすることもできる。
資料1 歌麿短冊
詞書
越天庵うしの菊を愛し給ふを
本文
百首程花を躬恒の歌かるた
をく霜の句や庭のしらきく歌万呂
越天庵宅に滞在中、同家の庭で主人が菊の花の手入れに精を出しているさまを、百人一首の「心あてにおらばやおらん初霜の置きまどはせる白菊のはな 凡河内躬恒」に懸けた歌であ と思う。前出の短冊『釈迦塚や〜」の署名は「歌麿」となっているが、この作品では『歌万呂」となっていることが違うだけで、筆跡は全く同じである。また、詞書から、
歌麿の釈迦塚訪問が秋であったことも読み取れる。越天庵の江戸上りは、資料中の詞書などから推定すると三度を数えることができる。母の危篤など、年度を確定出来るものもある。 期の滞在で年を越してしまったこともあった。その間の江戸の文化人との交友関係の広さは響くばかりである。太田蜀山人、鹿津部真顔、秋長堂(河井)物簗、狂歌堂約人、愚連堂凹など、数 切れないくらいである。この人たちが、帰国する越天庵にそれぞれ歌を送っていることで分かるのである。江戸では、判者越天庵は長岡の人と見られていたようである。長岡連を束ねてい 判者であったからそう思われていたのであろう、母の危篤の知らせで帰国する越天応に送られた真顔の歌がある。
資料2 鹿津部真顔短冊
詞書
母君のもとに故郷へといそかるるを送りてなか岡へ帰る別れのなくもかな
江戸に千代もと思ふをしへ子 真顔
今回の取材で、またひとつ重要な発見があった。越天庵夫人も狂歌を嗜んでいたことである。狂歌名は浜野美佐子で十五点の作品が残されていた。その中の一首を紹介する。
資料3 浜野美佐子短冊
詞書
神無月末頃ふらんす人来たりて上陸せるをみて読む
本文
新潟のみなとは雪のふらんすも
ふよきてさむきかわ衣かな 美佐子
越天庵夫人は文久三年に死去している。それ以前にフランス人の新潟来港があったことになる。他の一枚は美砂子辞世の歌である。
賃料4「故俳諧歌場四方側同盟井正統瀧門判者都講名順」
他に、越後における越天庵の立場を理解するに役立つ文書として、文政十二年に発刊された本資料に掲載され
ている二百五十名余の中から長岡近辺の判者を参考のために紹介する。
釈迦塚 越天庵雪人 高畑 山雲亭歌沙丸
長岡 夕陽楼山入 下今町 壇美亭柿丸
宮内 醒酔亭月守 長岡 越嶺舎重雪
南新保 陸花亭真雪
重雪と真雪は、「釈迦塚越天庵取立」と付記してあり、越天庵は判者を推薦出来る立場にあったことを証明している。因に越天庵は四方側と瀧門派と両方の名簿に名を連ねている。狂 というと、ざれ歌くらいにしか考えていなかった。が、日本の古典や漢籍類を学び高度の教養を身に付けた人たちによって詠まれてきたものであることが初めて分かった。狂歌という新し 分野に、筆者自身、全くといっていいくらい知識がなく。多くの短冊類を見ても的確な歌の解釈が出来ないことで、ただの報告に終わってしまったのは残念であるが、ご容赦願いたいもの ある。