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歌麿が釈迦塚に来た
歌麿と越天庵と狂歌 淡路久雄 (見附郷土誌12号1999年2月)

十月中旬のある日、突然、東京の国際浮世絵学会の会員で淺原という人から電話があった。用件は、あの有名な浮世絵師の歌麿が当釈迦塚へ来た、という、聞いたこともない、青天の 靂と奇想天外を混ぜたような話であった。 話しを聞いてみると、証拠は二件あるという。ひとつは歌麿の短冊、もう一つは狂歌集『四方逎巴流』(よものはる)の記載。短冊と狂歌集ともに「越天庵雪人」という俳号である、そういう は釈迦塚にいなかったか。これが電話の内容であった。確かに、越天庵は、釈迦塚新田名主浅野家九代目当主であり、和歌をたしなんでいたというのはわかっていたので、後日資料を送る 束をした。その後がまた偶然である。越天庵と江戸の狂歌師を結ぶ資料を発見することができた。釈迦塚町にある、釈迦堂の本尊を収めた御厨子の扉が壊れたので、仏壇屋へ修理にだして たのが直ってきた。その仏像を収めようとして作業中、浅野家の位牌とは違う家紋の位牌があるのに気がついた。挨を払ってよく見ると 「俳諧歌場壽誉福阿真顔居士、文政十二年六月六日終焉」とあった。あとで調べてみると、真顔居士とは、江戸の狂歌の宗匠「鹿都部真顔」のことであった。真顔は、太田蜀山人(狂歌 四方赤良)が寛政の改革で筆を折ると、蜀山人の四方派を率いた人で、位牌発見は、淺原氏の電話があった後でなかったら、永久に気がつかなかったであろう奇跡であった。これで、越天庵 歌麿を結んでいたものは絵でなく、当時流行の狂歌(俳諧であることがわかった.ちなみに歌麿の狂歌名は「筆の綾丸」といい、四方派であったから、狂歌の上では越天庵、歌麿は同門と言 る。早速、越天庵雪人(浅野儀右衛門)の過去帳と『北越名士録』(弘化二年刊)の越天庵の記載部分のコピーを送った。資料を受け取った淺原氏は、自分の推理、越天庵が越後釈迦塚の人であ ということが実証されたので、歌麿の短冊の詞書にある「ささ深き里」釈迦塚の地を自分の目で見たい、と、釈迦塚訪問を申しいれられた。十一月三日、歌麿の詠んだ狂歌の短冊(太田記 美術館展示品)のコピーを土産に東京都町田市の自宅から車で駆けつけられた。
歌麿の短冊 太田記念美術館蔵
詞書に「越天魔うじのミもとへ杖曳けるに、歌にこころさし深さを」
本文「釈迦塚や大恩教主狂歌仏うた念仏の絶えぬ此里」 歌麿
太田記念美術館では詞書「歌にこころさし深さを」の部分を「歌に有りし郷ささ深さを」と誤読していた。それで淺原氏は釈迦塚を笹深き里と思われたのだ。その上、この短冊の解説 は「歌麿と栃木」となっていた。歌の解釈は、
「釈迦塚や大恩教主(釈迦牟尼仏の尊称)狂歌仏(狂歌の指導者越天庵)うた念仏の絶えぬ此里」
とする。釈迦塚には釈迦堂があり、毎月そこで念仏講が行われていた。やはり、歌麿の釈迦塚訪問がなければ詠めない歌であろうと思う。
「越天庵氏の身もとに杖曳ける」という文言を、私は歌麿の釈迦塚訪問の確証としたい。淺原氏は、浅野家の屋敷跡、墓地、釈迦堂と、越天庵ゆかりの土地を散策して自分の推理を確 された。また、釈迦堂内の「真顔居士」の位牌を見て、『四方逎巴流』にある「判者・越天庵」は近郊一帯の狂歌の指導者であったということも納得できる、という.一日、目いっぱい使っ 、歌麿が訪れたという釈迦塚の風景を土産に東京へ帰られた。後日、淺原氏より歌麿の越後釈迦塚訪間の事実を国際浮世絵学会へ発表したという報告があった。また、歌麿の釈迦塚訪問は 政十年ころ、と推定された。
資料1
 狂歌集『四方逎巴流』国会図書館蔵文 政十一年刊
 鹿都部真顔編 二百九十一名記載の内
 六十九番 判者 越後釈迦塚村 越天庵
資料2
 短冊 太田記念美術館蔵 詞書に「越天庵うしのミもとへ杖曳けるに、歌にこころざし深さを」
 本文「釈迦塚や大恩教主狂歌仏うた念仏の絶えぬ此里」
 注1 杖曳ける“旅をすること 大恩教主=釈迦牟尼仏の尊称だが釈迦塚には釈迦堂がある。狂歌仏=越天庵としたいと思う。
資料3『北越名士録』の越天庵の記載部分
 注2
  越天庵
  天明元年(一七八一)〜万延二年(一八六〇)
  浅野儀右衛門 越天庵 雪人 白翁
短冊の詞書によって歌麿が釈迦塚を訪れたことは疑うぺくもないが、歌麿と越天庵が初めにどこで接触したか、大きな疑問として残った。儀右衛門の息子正八郎は江戸、長崎と遊学し が、越天庵が江戸へいったということは、聞いたことがなかったからだ。歌麿との出会いが江戸でないとすると、ふたつの場合を推理してみる。
資料4 浅野家過去帳より越天庵(儀右衛門)の部分
ひとつは鈴木牧之を通してである。牧之は縮問屋の商いで毎年のように江戸へ行っている。十返舎一九や山東京伝・団十郎など、役者、文人との交際も多かった、越天庵と牧之の交友 係が有ったことは、牧之記念館資料に記されている。もうひとつは栃木で出会ったのではないかということ。このあたり栃木の古峰神社の信者が多く、古峰講を作って、栃木の古峰神社へ 年、代参人を送っていた。現在も講を継続しているところもある。歌麿は栃木に縁があり、度々訪れ、長逗留していたという。短冊の出 は歌麿の栃木滞在先の旧蔵品でもある。越天庵と歌麿がどこで出会ったか、興味のあるところである。後日、さらに狂歌師真顔の資料を発見することができた。
資料5 短冊
 詞書「朝鴬」
 本文「鴬の初音は親の異見よりきけハ見にしむ春の朝起」 真顔
  南蒲原郡中之島町中野西
  中島(佐々木)忠右衛門家所蔵
資料6
 小泉善之助(蒼軒)がまだ坂井新田の名主をしていた当時記したもので、真顔を師として崇めた一文を残している。
 弘化四年,『蒼軒遺録』小泉蒼軒雅号の弁より
 (前略)……おのれいと若さほとに俳諧歌てふものに心よせてをりにふれことにつけよみける歌ともを友たちとともにかの大江戸なる四方真顔大人のミもとにやりてミをしへをうけつる とのありしを、かの大人ミまかりてよりハ、世に東ふりの道もいたくおとろひ、またおのか友たちも今ハおほかた倭歌をミよミならへと、おのれらかたハやすくまねふへきならねハ其のむ に入らす、狂歌をすら朽木の橋の中絶えたるものをとふたたひミたひいなみけるを……後略
 『小泉蒼好日録』新津市教育委員会刊より
 注3
 小泉(善之助)蒼軒 寛政九年(一七八九)〜明治六年(一八七三) 氏計 農郷 雲棲 極東 海巨花狂園 八百会舎 翠松軒
 自然地理学者、坂井新田(現見附市)名主、馬琴・京伝と親交あり。越後里程誌、越佐地名考などの著書がある。
後日、淺原氏より連絡があって、前回読み残した『四方逼己流』の越後関係の名前が報告されてきた。判者はもう一人今町に居たことがわかった。

判者 越後下今町(現見附市) 檀美亭 柿丸
     中野(現中之島町) 繁栄亭 真咲
     下今町      心杉亭 直樹
              (本名大原民治)
     南新保(現三条市) 暁園亭 雪雄
     下条(現加茂市)  豊廼国人
一人を除いて、その本名、経歴ともなにも分からない。今後、研究してみたいと思っている。東京で発見された一枚の短冊は、歌麿の越後来訪、越天庵の狂歌師としての立場、また、 都部真顔を師とする越天庵ら今町周辺の狂歌の「連」の存在など、いろいろの事実を二百年後の私たちに教えてくれた。長い間古文書解読を趣味としてきたが、新しい発見課題にぶつかり ばらくは古文書と離れられない日が続きそうだ。
()内は筆者注