私たちの釈迦塚町は、古くは縄文中期(三・四千年前)そして九・十世紀ころの遺跡があります。詳しいこ
はこれから発掘調査を待たなければなりません。今の釈迦塚町は慶長三年(一五九八)浅野正八郎とその家臣が、新発田藩主溝口氏に従い加賀大聖寺から越後新発田に入ったことから始まり
した。新発田藩では、慶長五年(1600)春、越後の国中に会津に移された上杉家の旧家臣や土豪の間に不穏の動きがありました。中之島郷は新発田城より遠く要害の地であったので、坂
村丸田に砦を築き、浅野正八郎とその家臣に守らせました。同年七月下旬ついに「上杉遺民一挨」が起きました。八月、一揆軍がついに三条城を包囲しました。お城の救援のため正八郎父
が出兵奮戦したと言います。その模様を描いた「三条合戦の図」が残されています。元和四年(一六一八)越後も戦の心配が無くなったので藩命によって坂井砦を引き払い、坂井上屋敷(現釈
塚町小字坂井浦)に砦の廃材を使い住まいを造り移りました。このとき家臣の内、譜代の者五十人を残し、その他の者は浪人、或いは坂井新田や小古瀬新田で百姓になりました。残った五十
が釈迦塚新田の開墾に当たりました。寛永 十三年(1636)釈迦塚新田の開拓も出来たので、坂井上屋敷を引き払い釈迦塚新田に住居
移しました。このとき旧臣の内二十五人を百姓にして、残りはそま家臣として近村の開発の手伝いをさせました。遠く天正九年(一五八一)浅野正八郎十五歳の時、譜代の者を連れて山城深
(京都)を出て、若狭高浜(福井)で溝口公に仕え、加賀大聖寺(石川)時代には九州まで出兵したりして苦労を重ね、越後に来て上杉遺民一挨を戦い、やっと釈迦塚新田に落ち着きました。そこ
開村と同時に主君や先祖の霊、戦死した家臣の追善供養のために、持物の釈迦如来を祀ったが現在の釈迦堂です。浅野家もまた、儀右衛門以来十二代に亘って名主職を務め上げました。浅
正八郎、儀右衛門父子と家臣二十五人で始まった釈迦塚新田は延宝四年(一六七六)三十七戸、明治九年六十四戸、現在は五十二戸を数える釈迦塚町となりました。最近九代儀右衛門を歌麿が
ねて来たこと、正八郎の兄内蔵元忠吉の墓が深草にあることが確認されました。
釈迦塚ニュース(一)
浅野家の祖先について浅野家は旧姓寺本といいました。「浅野家系図」には藤原鎌足を先祖に持ち、藤原忠元が寺本と改姓しました、さらに数代の後、山城極楽寺城主寺本兵庫頭忠直
名前が出てきます。この人が正八郎政久の祖父になります。父は直勝といい、正八郎が三歳の時父と死別しました。母と六歳の兄(内蔵元)と一緒に母の実家浅野家に厄介になりました。そ
で母の実家の恩を忘れる事のないようにと、母の遺言もあって釈迦塚に来から浅野と苗字を変えました。父には来源(直次)と直寿の兄弟がいました。釈迦塚まで「釈迦如来」や父の遣物を
り届けけてくれた人が来源です。また直寿は徳川家の旗本になりました。このような系図書には創られたものが多いといわれています。『新発田市史』や『見限市史』も浅野家の出自には
問が多いと書いています。ところが、最近になってお茶の水女子大の真島先生が古い文献に正八郎の兄寺本内蔵元忠吉の墓があった事実を見つけられました。忠吉
広島浅野家の家臣になりました。そして間もなく伏見区深草の大雲寺に墓が実在することもわかりました。「浅野家系図」は信用出来る
のとなりました。
ニュース(二) 儀右衛門と歌麿
浅野家九代儀右衛門は、庵号を越天庵、雅号を雪人または白翁といい、活花・和歌・狂歌で世に知られている人でした。その
右衛門について咋年十月、東京の国際浮世絵学会会員の淺原氏から電話がきました、釈迦塚に越天庵雪人という人がいなかったか、という ことでした。居たと答えると、越天庵は狂歌の判者(審査するひと)で、国会図書館にそれを証明する資料もあるという、逆に越天庵のことを教えられました。次の話が
突でした、浮世絵師の喜多川歌麿が釈迦壕に行った筈だ、聞いたことがないかとのことでした。答えようがありませんでした。十月になって、釈迦堂の本尊の御厨子を修理に出しであった
が直ってきたので仏様を収めようとした時、見慣れない位牌があるのに気がつきました。挨を払ってみると江戸の狂歌の宗匠鹿津部真顔の位牌でした。そこで初めて、歌麿と儀右衛門との
点が見つかりました、歌麿と儀右衛門は狂歌の上では真顔を師匠としていたからです。両者を結んでいたのは狂歌でした。淺原氏に報告すると、歌麿の短冊のコピーを持って釈迦塚を訪ね
れました。短冊には越天魔を訪ねたと書いてあるし、釈迦塚に来てみて、初めて詠むことの出来る歌でした。詞書に越天庵うし(氏)の身もとにへ杖曳けるに歌にこころざし深さを釈迦塚や
恩教主狂歌仏うた念仏の絶えぬ此里杖曳くは旅をすること。大恩教主は釈迦如来のことです。狂歌仏は儀右衛門をさします。うた念仏は昔釈迦堂で念仏講が行われていました、今老人会が
持しているのがその時の本尊仏です。淺原氏は、今年三月このことを国際浮世絵学会に発表されました。この事実は外国にも知られることになりました
ニュース(三) 開村四百年祭
釈迦塚町では、今年開村四百年を祝うことが決まりました。諏訪社境内に、明治三十一年(1898)に建てられた三百年記念祭の碑があります。一年遅れましたが実施されることになりまし
。四百年前の一五九八年は浅野父子主従が越後に入った年になります。公式の開村は寛永十三年(一六三六)ですが三百年記念碑を元に起算しました。記念行事として記念碑と「記念誌(町の
史)」を刊行することになりました。記念碑は秋祭り(九月最後の日曜日)に竣工の予定です。四百年目のあかしとして町内全戸の氏名を刻むことにしました。「記念誌」は平成十三年春発行
目標にして、執筆に入りたいと思います。皆様の御協力をお願いいたします。
文責:淡路久雄(新潟県見附市釈迦塚) |