歌麿と越後に関する調査報告(1999年4月浮世絵学会誌論文)
淺原雄吉


歌麿が栃木をしばしば訪れていたことは「土蔵相模の月」をはじめとする、雪月花三幅の肉筆画大作によって明らかになっている。また、栃木の訪問先が狂歌師通用徳成(つうようとくな )宅であったことも過去の吉田暎二、林美一両氏の研究で明らかにされている。
平成七年(一九九五)四月、都内の太田記念美術館で開催された「歌麿芸術の再発見」と題する展覧会に、初めて登場した歌麿の狂歌の短冊一点があった。短冊には三行の前書きと狂歌一首 書かれている。

越天庵(えてんあん)うしの
ミもとへ杖曳けるに
哥にこころさし深きを

  釈迦塚や大恩教主狂歌佛
    うた念佛の絶えぬ此里 歌麿

とあり、上四分の一部分には薄い丹色で二列に小さく扇に三巴の、四方赤良が戯作や狂歌などに用いていた紋が木版摺りで配置され、その上にこの前書きが書かれている。図録によれば「 成旧蔵」と記され、来歴、収蔵の記述はない。
短冊の公開直後からこの事案はわたしの調査対象のひとつにあげて気にかけていた。その理由は、ここに書かれた狂歌を読んで歌麿が栃木の徳成以外の地を訪れた可能性がありその地を知 たいと思ったからである。このほどこの歌麿狂歌短冊にまつわる二、三の発見があったのでここに報告しておく。
「文政十一子牛」の刊記を持つ「四方廼巴流」(よものはる注1) 中本一冊は、俳諧歌場真顔撰、繊月亭(せんげつてい)島人序、高島千春画による絵入り狂歌集である。この狂歌集の撰者で る俳諧歌場真顔は、天明三年(一七八三)四方赤良らが江戸狂歌を起こした当初から宿屋飯盛らと共に狂歌四天王と称せられた一人、戯作者恋川好町とも称した鹿津部真顔その人である。
折帳仕立て全三十折には真顔の下に総勢二百九十名の地方狂歌師が名を連ね、その中に歌麿の狂歌短冊に記された狂歌師の名を見出すことができる。収蔵先いずれも撮影不許可により、越 庵の部分を抜き書きしておく。
判者 越後釈迦塚 越天庵雪人
  矢走から瀬田へかすミのたつか弓引とき
   蜈蚣山(ごしょう)や迯(にげ)けむ
 この記述以外に、越後釈迦塚の越天庵なる狂歌師の存在をいまだ見ないが、文政末年すでに「判者」であったことは、この地域の狂歌師たちの指導者として越天庵を中心とする結社があ たことを意味する。歌麿短冊の「うた念佛の絶えぬ此里」は越天庵狂歌連の存在を詠んでいる。
越天庵雪人は越後釈迦塚の名主、浅野儀右衛門と称した。これは同町の見附市文化財保護会委員、淡路久雄氏によって知らされたことである。安永九年生まれ、号を越天魔、または白翁、 号を雪人。生花、和歌

平成七年、歌麿麗に出品された歌麿が越後釈迦塚の越天庵にあてた狂歌短冊…(太田記念美術 関録「歌麿芸術の再発見』より複写) 浅野家の過去帳より第九代目浅野儀右衛門(淡路久雄氏提供)
釈迦堂の厨子の中から発見された鹿溝部真顔の位牌

に長じていたことが氏の提示による弘化二年刊『越後人物志』に伝えられる。
 釈迦塚は現在見附市釈迦塚町だが、足利義輝の家臣の一人であった寺本某(後浅野と改称)が慶長二年開拓し、住民の大半がこの家系と何らかの関係をもつ小村である。享保年間の『宗 改帖』に「五十一戸、人数三百五十二人」とあり、現在でもこの数にほとんど変動がない。
 浅野家は明治初めに栃木へ移住し、その跡地は北陸自動車道開通にともない形跡すら残っていない。しかし、儀右衛門の誕生時に浅野家によって門前に建立された釈迦堂は、今日浅野家 所として代々の位牌が厨子に納められ祀られている。そしてこの浅野家の位牌中に浅野家と家紋の異なる位牌が一基、淡路氏によってわたしの訪問直前に発見された。それは『四方廼巴流 の撰者、俳諧歌場真顔の位牌(写真)であった。
 発見された位牌は黒塗りに金線で縁どりされ、頭項部に扇に三巴の四方赤良が用いた紋が標されている。紋の下に真顔の戒名「俳諧歌場寿譽福阿真顔居士」、その右に没年「文政十二已 年」、左に「六月六日終焉」の字が彫られ、上から金色で筆書きされている。
 真顔の歿年は『四方廼巴流』刊行の翌年、文政十二年(一八二九)六月六日、この位牌の記述にある通りである。また、越天庵の歿年は万延二年(一八六一)であるから少なくとも三十年余リ わたって師を敬慕していたことになる。
 冒頭で紹介した歌麿短冊には、栃木の「徳成旧蔵」と図録には記されている。そのことは、歌麿が越後釈迦塚の越天庵を訪ね、栃木に戻ったのちこの短冊を認め徳成に託したものの越天 の手には渡らなかったということが考えられる。越天庵の残した記録には晩年越後を離れたことがない、と淡路氏から伝えられた上での推測である。
 歌麿が栃木を訪れていたのは遅くも寛政十年頃までであろうか、仮に寛政十年とすれば歌麿四十五歳、徳成三十二歳、越天庵は十九歳ということになる。寛政十年以降、歌麿と狂歌の関 は地方狂歌師とのつながりも含めて急速に疎遠になってゆくところが見られ(注2)、越後訪問はそのころ栃木を起点にした越天庵訪問のみを目的とした小旅行であったと推定される。また 栃木から越後への行程は途中の難所三国峠があり、ここを越える道と福島を経由するルートがあったというが、果たして歌麿はどのルートを選択したのであろうか。
 歌麿の狂歌の解釈であるが、「犬恩教主」は釈迦牟尼佛の尊称であり、ここでは釈迦堂を指している。すなわち歌麿はこの狂歌中に釈迦塚と呼ばれる地名と歌麿が訪問したときにすでに の象徴である釈迦堂とを重ねたもので、当時の江戸風の機知で表現したことがわかる。同時に釈迦堂という、その地にしか存在しない事物の詠み込みがこの狂歌の成立を見ていることから 歌麿がこの地を訪れていたことは疑いようがないと判断しても良いのではあるまいか。
 前書きにある「哥にこころさし深さを」は、越天庵の若さと狂歌に対する志を称えて述べたものであり、さらに「うた念仏の絶えぬ」というのも、すでに指導的立場にいた越天庵の狂歌 功績を称えつつ、滞在の礼を含めているものと解釈できるであろう。
 釈迦塚では大正時代まで栃木の古峰神社へ参詣する講が毎年組織され、村が代参を送っていた記録がある。その古峰神社への参詣は百年以上も続いていた行事であった。そのような関係 ら、古峰神社とさほど離れていない通用徳成宅を越天庵がいずれ訪間するであろうと歌麿が判断していたとしても不自然ではなかろう。
 徳成、越天庵、歌麿の三者の関係は狂歌を軸にすれば直線的な関係が見えてくる。ここには浮世絵師であり狂歌師でもあるという二つの顔を持つ歌麿が、四方派のひとりとして江戸狂歌 普及の一端をはたしていた姿を見るのである。


 このささやかな報告が歌麿研究における新たな視点の提示にならんことを期待するとともに、今後越後を中心に新たな事実が掘り起こされることを期待するものである。
 なお、文中ふりがなはすべて淺原が付した。釈迦塚文化財保護審議委員、淡路久雄氏のご協力に感謝を申し上げたい。



(注1)『四方廼巴流』は、①寛政七年の刊記をもつ狂歌堂真顔撰、京傳、団十郎、路考画による『四方の巴流』と、この②文政十一年の刊記をもつ四方歌垣真顔撰、繊月亭島人序、高嶋千 画による『四方廼巴流』、さらに③天保七年の刊記をもつ狂歌堂島人撰、葵岡北渓画になる『四方廼巴流』の三冊がある。このうち、②の『四方廼巴流』は東京国立博物館岩瀬コレクショ の他、早稲田大学図書館林野文庫、国立国全図書館蔵本とがある。
 越天庵の狂歌は、この文政十一年刊の『四方廼巴流』第八折り冒頭より六十九番目の狂歌師として登場する。
(注2)歌麿と栃木の狂歌師との関係が表現された最晩年の錦絵作品は寛政六〜八年ころの作と思われる「狂歌入風俗十二月」(中判錦絵 若狭屋与市板)であろう。この作品に寄せた九名の 木の狂歌師のうち「三月、七月、九月」に狂歌を寄せる通用徳成は、歌麿の肉筆画「杭打ち図」に狂歌賛を入れ、それに歌麿が「行年四十三才」と記している。歌麿歿年から逆算すれば、 十三歳は寛政八年にあたる。またこの錦絵中「十一月」に狂歌を寄せる川船棹長は、林美一氏の『艶本研究 歌麿』によれば寛政九年刊『会本美女歌多智』、同十年刊の『会本都功密那倍 に狂歌名が登場すると指摘している。 寛政十一年以降、栃木の狂歌師のみならず地方狂歌師と歌麿との関係を示す資料は、わたし自身現在まで見つけるにいたっていない。