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古文書を読んでみよう
(2001年10月31日)
淺野家由緒書写(安政二(1855)年)
三代淺野次五右衛門書の1674年の写
(1)天正九(1581)年のこと
(2)天正十一(1583)」年のこと
(3)慶長三(1598)年のこと
(4)同年6月正八郎父寺本内膳正直壽の死去
(5)家紋について
(6)元和三年(1617)年2月16日正八郎政久死去
(7)天正14(1586)年加賀國大聖寺にて儀右衛門政邇誕生
(8)元和四(1618)年
(9)同年坂井之館引払候
(10)寛永13(1636)年釈迦塚相立致開発
(11)明暦2(1656)年3月15日儀右衛門政邇儀病死
(12)元和元(1615)年坂井之館にて甚之丞政弘誕生
(13)正保元(1644)年釈迦塚にて次五右衛門誕生
本古文書の歴史的背景と基礎知識
淺野家(新潟県見附市釈迦塚、但し、100年前に県外に移住)の祖先は
  古く藤原家に由来します。藤原北家、48代藤原忠元が山城国紀伊郡極楽寺城主となり父の在府尾張寺本郷をとり寺本と名乗ります。その後、寺本家は忠国、直忠、忠定、忠之、忠、忠秀から兵庫頭忠直に至ります。忠直は大将軍義輝公御生害此時忠直従君殉死します。忠直には直勝、直次、直壽の三人の息子がおりました。その嫡男直勝は三好山城入道逆乱の時将軍昭公を救うため六条河原大合戦討死しました。そこで、直勝二男正八郎直久は叔父の直壽の養子となりました。寺本直壽は淺野長政の妹を妻としていました。直久は天正九(1581)年後の新発田藩主溝口公のもとに譜代の家臣をひきつれ、客分となりました。溝口公の命により寺本直久は武田家ゆかりの名家である逸見家を立てるようにとの命で逸見正八郎政久と改名した。しかし、後に、育ての父、寺本直壽の遺言により母を忘れぬようにとの事で、母方の姓である淺野正八郎政久と名乗るようになりました。淺野政久が初代で現在は淺野家は15代となっています。
ここに取り上げた淺野家家筋書はもともと政久の孫となる三代淺野次五右衛門が延宝二(1674)年八月に書いたとされるものでした。自分の高曽祖父、曽祖父、祖父、父、自分についてのべています。

古文書を取上げた理由

  まず、この古文書を取り上げた理由は、多くの場合、風雨や虫食いなどの自然現象により保存状態が悪いのですが、この文書の状態が、とてもよく、綺麗な「お家流」でかかれて・ ることです。
  私が古文書に興味をもったのは、わずか100年前の文ですら活字になったもの以外は現代の私を含めた99%以上の人々が読めないことに気づいたからです。これが、英文な 読めてしまうのに、母国語が全く読めなく、そのために不当に処分されてしまう多くの家々に継がれている文化遺産があることに驚嘆いたしたことが発端でした。しかし、私は古文書の勉 シキ繧オ始めてまだ4ヶ月しかたっておりませんので、間違いがあると思われますが、その際はご一報いただければ幸いです。(2001年10月30日  管理人)

各リンクページの内容は以下のような項目で構成されております。
古文書
    原文お家流の写真です。
楷書化
    活字にあてはめてみました。
現代語訳
    わかりやすく翻訳してみました。
読み方
    かなで読み方を書いてみました。但し、名前は活字のままにしてみました。わたくしの個人的な考え方ですが、声にだして読めると文書の理解も早いようなきがいたしましたので・ この項目をつけるわえました。
解説
    
この部分の古文書の難しい表現、変体かな、時代背景、習慣などについての解説がおこなわれています。解説者は全体の監修を含め新潟県の中世古文書の研究者の淡路久雄氏にお願いいたしました。このシリーズを通して快く、解説やアドバイスを頂きましたことに厚くお礼もうしあげます。(管理人)