由緒書意味と解説

三代  浅野次五右衛門
解読は 2001年12月(管理人)
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一、 私の曽祖父正八郎政久は山城國(京都伏見深草)で生まれ、父は深草の寺本兵庫頭忠直の三男の寺本内膳正直壽で、母は浅野長政の妹でありました。幼少の時は稲津長丸と申しました。天正九(1581)年十五歳になり、代々つかえてきた家臣を大勢召しつれて若狭國へでかけ、高浜に於て御太祖様(溝口秀勝公の父勝政公のこと)へ初めて おめどうりしましたときに元服をさせていてだき、逸見駿河と申す者の家名をつぐようにとの御意思により、加藤氏の娘を(溝口秀勝公の父勝政公のこと)御養女にして妻にするようにされました。御先代様の御一字(名前)を下され、その節逸見正八郎政久と改名をするようにさせられました
お家流 鎌倉時代、青蓮院門跡尊円法親王によって作られた書道の流派、徳川幕府の公式文書の文体に採用された。お上に提出する文書は必ずこの書体を用いた。
歴史 この文書は新発田領中之島組小沼新田名主西保平に依頼して書いてもらったものである。
欠(闕)字の礼 文中に貴人に関係した言葉や称号が出てきた場合、敬意を表してその文字の上に一,2字あけること、改行することもある。明治五年廃止。
加藤氏 溝口家家老、加藤図書頭
御太祖様 新発田初代藩主秀勝の父勝政公のこと
若狭 北陸道七か国の一国。大化改新で一国となる。鎌倉時代、津々見忠季らのあとを受けて北条氏が守護となり、南北朝時代は足利氏が統一。廃藩置県で小浜県となり、敦賀・滋賀県を経て明治一四年福井県南西部となる。
一、 天正十一(1583)癸未年  御太祖様(溝口秀勝公)が越前國敦賀等の戦に出られたとき、先駆けをするようおっしゃられましたこと。同年四月四万四千石にて加賀國大聖寺城へ お入りになられたとき、お供し能美郡の内に土地を下されたこと。同十五(1587)丁亥年の九州出兵をはじめとして何度も陣に譜代の者と加わりに御太祖様のために働きましたこと
大聖寺 現在は加賀市(石川県)となっている
九州へ 秀吉による島津征伐
異体文字 標準の字体の他に当時普通に使われていた文字で、現在は使われていない文字。古文書には数多く登場します。敦賀ナドの等がその例です。
由緒書 藩では数十年に一回、村・町役人などにその家の由緒書の提出を命じました、そのうちの一通(写)です。
一、 慶長三(1598)年加州(加賀國)より 当城(新発田)へ お入りになられる時、お供し、同五(1600)年三月越後國が不穏な状態であるあいだ、領内の中之島郷は新発田城より然程遠く要害の地であり、大新田の坂井へ隠密りにまかり出て前線を守るというもくろみがあって、同年六月正八郎は手の者を召し連れ同所を押さえるために出張しましたこと。会津では上杉景勝が謀叛により越後にのこっている候浪人や百姓などがあつまり同年七月下旬より国中で一揆が蜂起しましたので、大面中ノ島の百姓たちより人質さしださせ手配を堅固にするように申し付けておいたので、事態を知らせるために大津勝右衛門川村勘勘兵衛等をおいおいしばたへしらさせ八月には一揆は三条の城巻き責めまでになったので御太祖様の後詰を仰せられたときに正八郎は(戦いに)かけくわわり大崎や一ノ木戸で働ましたこと
異体字 加州より、百姓共よりが多く使われている
変体かな 免(め) 志(し) 多(た)など
難読句 有之=これあり 被仰付=おおせつけられ
     為差出=さしださせ 被遊=あそばされ
要害 地勢がけわしく、守りやすく攻めにくい所。防御のための設備をすること。とりで。要塞。また、その防備。
入部(にゅうぶ) 領内にはいること。特に、国司や領主などが、はじめて任国や領地にはいること。入国。入府。
注進 事件の内容を書き記して急ぎ上申すること。また、事件を急いで報告すること
解説 この一件は関が原の役に先だって、会津の上杉景勝が旧領越後の回復を図って、越後に残した旧臣や百姓たちをかたらって一揆を起こさせたもので、春日山堀氏の与力大名としての溝口家の立場から三條城(堀氏)の救援に向かったことをさす。
大新田さかい(見附市坂井町)
一、 同年6月に正八郎の父、寺本内膳正直壽は
  権現(徳川家康)様へお使えしておりましたが、関東で五十八歳で病死してしまったときに、母は同姓の内蔵允方へ引取り、浅野の家で余生をおくることになり母をわすれないようにとの遺言があり、其頃より母方の苗字の浅野になりましたこと
本文に使われている変体かな江はえと訳すべきですが現行のかなずかいではえとへとに使い分けが必要です
変体かな 而(て) 二(に) 者(は) 之(の)但し之は(し)と読む場合もあります
一、もとの苗字は藤原で、家紋は代々直系は無葉降藤の中に剣菱、庶流(分家)は三ツ葉降藤の中に剣菱にでありましたが 天正九年より逸見氏に苗字を変えるようにとの事で紋所はかすみ菱の中に剣菱又丸輪の中剣花菱になるようにいたしました。
変体かな か春(す)み
嫡流 本家の血統。正統の血統。正統の流派。
庶流 本家から分かれた家柄。分家、別家をした家すじ
一、 元和三(1617)年2月16日に正八郎政久は五一歳で病死し、法名を了慶院禅定浄教と申しますこと
変体かな 与(と)
一、 祖父浅野儀右衛門政邇は、天正十四(1586)年加賀國大聖寺に生まれ、幼少の時は正太郎と申しました。慶長三(1598)年2月十三歳で元服し、御太祖さまひお目にかかり儀右衛門と解明し同年加州(加賀)から当城(新発田城)にこられたときにはお供いたしました。同(1600)年八月越後國一揆のとき三條城での責務を果たし 太祖様の後詰を申し付けられたとき、坂井にまかり出て、中之島・大面の押さえの役割を果たしましたこと
変体かな 里(り)
難読文字 被成=なされ
一、 元和四(1618)年、其の頃になると静かになり坂井砦にそのままに人数があることについて御二代様(二代目の溝口宣勝公)の命令で譜代の者を五十人を二組として残しておき、それ以外者は全て浪人や茂右衛門新田、平右衛門新田等の近村で百姓にさせました
変体かな い多(た)し
茂右衛門新田(現見附市坂井新田)
平右衛門新田(栄町小古瀬新田のこと
歴史 この年幕府が「一国一城令」を発し、一国に一城を残し外の城砦は破却を命じられた
静謐(せいひつ) 静かで、落ち着いていること。世の中がおだやかに治まるさま。
憚(はばかり) 恐れつつしむこと。差し控える
一、 同年坂井の館を引払うことになったとき、なお中之島大面の警備のため同所を上屋敷とし、目立たぬよう住居を構えているよう指示があり、寛永十三(1636)年まで19年間荒地開作分の土地を給わり、同所にて右50人の者を扶持していましたこと
給地 戸時代、大名領主から知行を分給された家臣が、その土地、人民を一円支配すること。また、その土地。
難読句
 為御備 おんそなえとして
 可罷在 まかりあるべく
 蒙御意
 ぎょいこうむり
一、 寛永十三(1636)年、新田の開発がおわり釈迦塚として成立し、旧臣の内一組25人の者を百姓にしすえ、そのとき、(坂井の)上屋敷を引取り当村(釈迦塚)へ住居を立て移り住み、一組25人の家来はそまま扶持しておきましたこと、その頃片岡新左衛門様・山庄小左衛門様が郡にて新田開発のことについて、毎年中之島へおこしになられた際、村々開作のお世話をし、ご奉公申し上げましたこと
変体かな 毛(も) 能(の)
歴史 片岡、山庄は郡奉行職にあった人
一、 明暦二(1656)年三月十五日、儀右衛門政邇は71歳で病死、法名を淨円と申しますこと、
一、 父の甚之丞政弘は、元和元乙卯(1615)年坂井の館で生まれ、幼い頃から病身で正保三丙戌(1646)年6月32歳で祖父より先に亡くなり、法名を淨意と申しますこと一、私は正保元(1644)年、当村(釈迦塚)に生まれ、幼名を甚太郎と申し、三才で父母に別れ、祖父の儀右衛門に養育されて成長しましたが、明暦二(1656)年十三才の時、祖父も病死し、その際私が年が若いということで、大肝入の大竹長右衛門の紹介で長呂村から竹石牛之助というものが私の叔母の婿になって私の後見ということで入家してまもなく長右衛門と申し合わせて私はじめ譜代の者を無視しました。長右衛門は前々から祖父の儀長右衛門とは仲が良くなく存命中より私の家の取り潰しを画策していたと聞いておりました。譜代の者が、大殿様へ訴訟を申上げ、牛之助を追い出し、私が家督を継ぐよう仰られ、元服し次五右衛門と改名したところ、牛之助、長右衛門は遺恨をもって、私ならびに村方にいろいろな嫌がらせや騒動を起こしご迷惑をおかけいたしました。私はまだ若輩ものですので、祖父のような御奉公もうまくいかないく不安なので、なおまた同年九月中に二十五人の百姓より訴訟を申し上げましたところ、願いが適って、当村の肝煎にしていただき、勤めに励みまして、結局代々のお殿様のご厚恩をにより、これまで相続してまいりましたことはまことに有難いことと存知あげておりますこと、以上
変体かな 連(れ) ヲ(を)
難読文字 難有=有難はよくある使い方
畢竟(きっきょう) (梵atyantaの訳語。「畢」も「竟」も終わる意)仏語。究極、至極、最終などの意。つまるところ。ついには。つまり。結局。
肝煎 町や村の長。名主(なぬし)、庄屋などをいう。あれこれ世話をすること。斡旋(あっせん)すること。また、その人。とりもち。世話役
歴史 この頃の新発田藩は村役人の呼称を大肝煎、肝煎とよんでいたが、この後まもなく庄屋、名主と呼び方を変える 注目すべきは次五右衛門代まで浅野と苗字を書いていること、次代あたりから苗字を書くことがなくなる。私文書は苗字を書くこともあったが、九代儀右衛門十代正八郎は神文名主として苗字帯刀を許された