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浅野家由緒書(写) NO_1
浅野次五右衛門書(延宝二(1674)年八月)

楷書化

一、 私曽祖父正八郎政久義生国山城國父は
深草寺本兵庫頭忠直の三男
寺本内膳正直壽、母は浅野長政之妹に
御座候、幼少の時稲津長丸と申し天正九
辛巳年十五歳になり、譜代の者大勢召連
若狭國へ罷出、高浜に於て
御太祖様へ初めて 御目見仕候節
元服被 仰付、逸見駿河と申者之
家名相立候様
御意有之,加藤氏之娘
  御養女にて妻に被下置
御先代様の御一字拝領其節
逸見正八郎政久と改名被 仰付候御事
意味

一、 私の曽祖父正八郎政久は山城國(京都伏見深草)で生まれ、父は
深草の寺本兵庫頭忠直の三男の
寺本内膳正直壽で、母は浅野長政の妹で
ありました。幼少の時は稲津長丸と申しました。天正九(1581)
年十五歳になり、代々つかえてきた家臣を大勢召しつれて
若狭國へでかけ、高浜に於て
御太祖様(溝口秀勝公)へ初めて おめどうりしましたときに
元服をさせていてだき、逸見駿河と申す者の
家名をつぐようにとの
御意思により、加藤氏の娘
を(溝口秀勝公の)御養女にして妻にするようにされました。
御先代様の御一字(名前)を下され、その節
逸見正八郎政久と改名をするようにさせられました
読み方

一.わたくしそうそふ正八郎政久ぎ、しょうごくやましろのくにちちは
ふかくさじょうしゅてらもとひょうごのかみ忠直のさんなん
てらもとないぜんのしょう直壽、ははは浅野長政のいもうとに
ござそうろう。ようしょうのとき稲津長丸ともうし、てんしょう九ねん
  十五さいになりふだいのものおおぜいめしつれ
わかさのくにへまかりいでたかはまにおいて
ごたいそさまにはじめておめみつかまつりそうろうせつ
げんぷくをおおせつけられ逸見駿河ともうすものの
かめいをあいたてそうろうように
加藤しのむすめ ぎょいこれあり
ごようじょにてつまにくだされおく
ごせんだいさまのごいちじはいりょうそのせつ
逸見正八郎政久とかいめいすべくおおせつせつけそうろうおんこと

解説(淡路久雄)

お家流
 鎌倉時代、青蓮院門跡尊円法親王によって作られた書道の流派、徳川幕府の公式文書の文体に採用された。お上に提出する文書は必ずこの書体を用いた。
 この文書は新発田領中之島組小沼新田名主西保平に依頼して書いてもらったものである。
欠(闕)字の礼
 文中に貴人に関係した言葉や称号が出てきた場合、敬意を表してその文字の上に一,2字あけること、改行することもある。明治5年廃止。
 文中6、7,8,9,10,11、13行目にみられる。
加藤氏
 溝口家家老、加藤図書頭
御太祖様
 新発田初代藩主秀勝の父勝政公のこと
追加解説(管理人)
若狭 北陸道七か国の一国。大化改新で一国となる。鎌倉時代、津々見忠季らのあとを受けて北条氏が守護となり、南北朝時代は足利氏が統一。廃藩置県で小浜県となり、敦賀・滋賀県を経て明治一四年福井県南西部となる。