医人小伝「浅野虎三郎」
●浅野家について
浅野家は天正9年(1581)、山城国(京都)を出て、若狭国(福井)、加賀(石川)を経て、越後に入り、ここで浅野正八郎政久が新発田藩の支城・坂井砦を築き、この地を守り、治めていた。その後、戦の心配もなくなったため、藩命により砦を引き払い、釈迦塚新田に落ち着いた。浅野正八郎、儀右衛門父子と、その家臣25人で開墾に着手した釈迦塚新田も、延宝4年(1676)、37戸、明治9年には64戸、現在は51戸を数える釈迦塚町となった。浅野家もまた、儀右衛門以来12代にわたって釈迦塚新田の名主職を務め上げた。
●浅野虎三郎の生い立ち
浅野虎三郎は安政6年(1859)1月24日、新潟県南蒲原郡今町大字釈迦塚1405番地に、この儀右衛門以来第12代浅野家当主・浅野正八郎政行とその妻サタの長男として生まれ、幼名を虎松といい、長じて第13代浅野家当主・浅野虎三郎政達と改名した。後述する妻・トヨとの間に、五男七女の計12人の子を儲け、その長男が浅野正、次男が浅野進である。[写真①・②]
浅野虎三郎は、釈迦塚新田の隣村(新潟県中之島)に、のちの東大内科学教授人澤達吉(慶聰元年・1865生)の父の勧めで医学を志し、「済生学舎」に学ぶ。「済生学舎」は長谷川泰(天保13年・1842年生、新潟県長岡市山身)が明治9年に創設した医師養成の速成の為の医学校である。修業年限3年を満たさずとも、実力に応じて医術開業試験に臨む機会を与えたようである。その当時、政府は西洋医の養成の急務を叫び、「医制」を明治7年に発布し、明治8年より「医術開業試験」を呼びかけ、各府県立の医学校を造るように促していた時期である。また、長谷川泰の弟、長谷川順次郎(嘉永5年・1852生)は明治11年より栃木県医学校に勤め、後に校長となる。浅野虎三郎は医術開業試験に年齢を1年偽り合格したのち、東京大学医学部の前身で学び、その後入澤達吉の父の診療所に勤め、その診療所を任せられていた。では、浅野虎三郎はどのように栃木県に迎えられたのだろうか。「栃木県教育史]の第4章・栃木県医学校(日向野徳久分担執筆)によれば、「校長三浦省軒のもとに、教授をしていた長谷川順次郎等が有名であり、その他飯島亮泰(外科教授)、浅野虎三郎
(内科教授)、柳沢直節(眼科)がおった。」とあり、栃木県医学校で教鞭をとっていたことになる。「栃木県史」によれば、「医学校廃止と同時に附属病院も廃せらるることとなったので、栃木病院設置連動となり、医学校跡の建物及其他の緒器機等必要なるものは悉く之を移管し、栃木病院と改名設立した。」とあり、欄外に「栃木病院は明治16年廃し院長浅野虎三郎引受け個人経営とす」と記載されている。「栃木県医師会史」によれば、「明治17年県庁の宇都宮移転とともに栃木町には栃木分院が設けられ、浅野虎三郎がその分院長となり、明治21年9月分院廃止となるまで執務した。」とあり、また「ふるさとの想い出写真集」(日向野徳久編)によれば、「浅野虎三郎は明治18年県立宇都宮病院(註:明治6年創立)副院長として栃木県に迎えられ、明治20年県立栃木病院長心得(註:副院長)として赴任」と記載されている。このように諸説があるが、年代を追って整理して見て行くと、そもそも浅野虎三郎は明治12年〜13年頃、栃木県医学校とその付属病院の内科教授として栃木県に招聘され、赴任して来たのではないだろうか。ではなぜ、新潟県の片田舎の診
療所に勤務していた浅野虎三郎が選ばれたのであろうか。推測するに、東大にいた関係での紹介があったのか、「済生学舎」の創設者の長谷川泰の弟・長谷川順次郎が栃木県医学校の教授・校長の時、「済生学舎」出身であり、新潟県出身という地縁関係で指名されたのか定かではないが、その可能性は充分考えられる。いずれにせよ、栃木町赴任が虎三郎のそれからの人生を大きく決定づけることになる。
●浅野病院の成り立ちとその特色
「大日本博覧図」(明治23年刊行、当時の全国の代表的な建物などを忠実に描写した本)の栃木県の部に、明治21年栃木病院廃止し、浅野虎三郎がそのまま継承した当時の建物の様子が忠実かつ詳細に銅版画に描かれている。[写真③]
写真③の医廃人り口に掲げられている看板には、向かって左側より「浅野医院」「宇都宮駆微院第一山張所」「浅野医院病室」と記されており、これにより浅野医院が栃木県より駆微院(梅毒・淋病等の検査と治療)の嘱託も受けていたことがわかる。また、奥には自宅と思われる建物があり、満開の桜の木が描かれている。その後、明治30年(虎三郎38歳)7月17日付の浅野家資料に「其筋ノ認可ヲ得テ本院ヲ病院組織トナシ浅野病院ト改梢致候」とあり、浅野医院を浅野病院と改梢し開院している。明治40年の記事に、当時の浅野病院の様子がよく紹介されている。それによると、「同病院は泉町不動尊境内にあり、初め明治21年中縣立栃木病院の廃せられし當時、院長の職に在りし浅野虎三郎氏之が業務の一部を継承して私営となし泉町に私立病院を開設し、後不動尊境内に宏壮なる建築を為し、爾来20年間、院長の熱心なる経営と不断の勉強により、畷履として隆盛の域に進み現今の大をなしたるものにして、院内の設備は能く時代の進歩に伴い、清潔なる病室十数箇を有し、實に縣下一大病院の梢に負かず、現今に至りては副院長として関西医学學界の重鎖たる北川博士の許に在りし弓田氏(註:虎三郎の妻トヨの実弟の弓田利平)を聰し、其の規模の拡張すると共に一層の改良を加えたり。特色は一般内外科,婦人科、皮膚病梅毒淋病科の設けあり、殊に呼吸器病、十二指腸虫病
及夜尿症子宮病痔症等に最新なる療法を施し、外科手術の内剖腹術の如き大手術も容易なりと謂ふ、尚栃木附近娼妓の入院治療を嘱托せられあるを以て、花柳病の治療は最も得意とする処なりといふ。」とある。また、大正期の記事では、「門の中央にガス燈を掲げ、木造の洋館をペンキで塗ったこの建物は、栃木町の一名所として近郷近在からわざわざ見物に来るほどであった。」とある。[写真④]
大正10年に当時としては近代的外科手術室が新しく完成する。この手術室は、総タイル張りで、洋風の高い天井の北側には大きな採光窓があり、現在の無影灯がわりにした工夫のあとがみられ、水道の蛇口も直接手を触れない長いレバー型になっている。九州帝国大学医学部(現九州大学医学部)卒の長男・浅野正のアドバイスにより、当時の九州医専の手術室を模倣したと言われている。病舎(入院病棟)は三尺廊下の二階建てで、ハーモニカ長屋式に十六室あった。[写真⑤]
また、浅野病院は産婆および看護婦の養成にも力を尽した。大正13年の記録によれば、栃木県に産婆なき村が66ヶ村あり、その出産方法は極めて非合理的的、劣
悪なものであり、当時産婆および看護婦の養成は急務であったことが窺える。このように、浅野病院は一般内外科、耳鼻咽喉科、婦人科、皮膚病梅毒淋病科の一般診療のほか、娼妓の検診・治療、そして産婆および看護婦の養成にも尽力し、その成り立ちからも半ば公的性格・使命を帯びた病院であった。
●浅野虎三郎の経歴・業績とその生涯
前述の資料をもとに、浅野虎三郎の主な経歴・業績をまとめてみると、①栃木県医学校教授として活躍、②栃木娼妓治療所における娼妓の健康管理・治療に貢献、③郡医師会創立に貢献し郡医師会長として活躍、④産婆養成所および看護婦養成所の設立と産婆および看護婦の養成に貢献、⑤関東大震災時、長男・正、次男・進とともに救護活動に貢献などが挙げられる。その他エピソードとして、明治41年コッホ氏来日の際、コッホと北里柴三郎を日光に案内し、記念写真を残している。明治18年、浅野虎三郎(26歳)は、弓田トヨ(栃木県河内郡宇都宮出身・当時18歳)と結婚をしている。虎三郎は穏やかで、呑気で愉快な父親で、妻トヨをこよなく愛し、五男七女の計12人の子を儲け、うち4人を医学士にし、町の人からは「士族のお医者様」「殿様医者」として畏敬と尊敬を受けた。片田舎の名主としての平凡な人生に終わることなく、江戸・明治・大正・昭和にわたり生き抜き、我が人生に悔いのない生涯を送り、昭和13年(1938)6月12日没す。享年79歳。
●あとがき
浅野家の資料(戸籍謄本、浅野家由緒書抜粋、浅野家系図)および文献として「栃木県史」、「目でみる栃木市史」、「栃木県教育史」、「大日本博覧図」、「ふるさと思い出写真集」、「済生学舎と長谷川泰」、「栃木県郷土文学研究」、「栃木郷土史」、「栃木県の歩み」、「下野一世相100年」などを参考にして、浅野虎三郎の生涯を略述した。参考文献に諸説がみられたため、いくつかの疑問には親族等の伝聞、推察を加えた。今まで曾祖父のことは写真で見る以外、恥ずかしながら何も知らなかったし、知ろうともしなかった。稿を書き終えてはじめて、浅野虎三郎を誇れる曾祖父として身近に感じることができるようになった。この執筆の機会を与えてくれたことに感謝致します。(40×36)(文責:石井重利)