2001年8月17日
釈迦塚公会堂にての古文書虫干
淺野家には代々の当主が作成した多くの系図が今に伝えられている。今回私が淺野本家におもむき、電子化した系図は4つあり、現在まで発見されていなかったものが3つあります。その内の1つに「系図 末」があります。この「系図 末」は藤原、寺本、淺野へと続く時の流れのうち、淺野を中心に詳しくかかれています。特に女性であっても生年月日はもとより嫁した先とその年月日についても記されているものが多い。この「系図 末」は本家当主の許可がありしだい、本ページで一部を公開いたします。この「系図 末」の中で淺野家の歴史の中で幾つかの事実が新たに発見された。約300年前に中之口村の庄屋で大竹与茂七というものが中心となって、洪水阻止のために新発田藩の木材を切り倒し、中之口川の治水に使用し、藩から仕置きされた事件があった。いわゆる与茂七騒動です。現在では義民として評価され1993年に新発田の諏訪神社へ「義民大竹与茂七」ほ石碑が有志の手により建立されています。淺野家の文書の中に唯一、与茂七を取り上げた記述は第13代による「坂井砦誌」の付録として近郷の農村の開墾の歴史をとりあげ、一番最後に「...名主与茂七正徳二辰年暮より同三巳年春ニ懸ケ一組騒動ノ頭致シニツキ同五月御仕置キト相成候」との記述があるのみですが、与茂七騒動と淺野家とは深いつながりがあります。当時、与茂七騒動に加担した多くの農民が処罰、処刑されています。釈迦塚村名主の倅で久之助もその一人であったと伝えられております。しかし、「久之助」という者は淺野家の系図には出ておりませんでした。淺野家の系図も代々にわたり何度も書き写されていったのですし、その時、都合の悪いものは削除されていったと考えられます。第3代の子供達は系図の人数よりは過去帳の人数が一人多いことはすでに知られておりましたので、その系図に照らして不足している1名が「久之助」ではなかろうかと以前から推量されておりました。ところが、今回、本家よりもちよった「系図 末」にはその名前がかかれておりました。「粂之助」です。私の考えでは時代背景と、名前から判断して「粂之助」が「久之助」であることにまちがいはないだろうとの結論に至りました。これで、こころざしを認められず獄中で不幸な死を向かえた「久之助」を本当に供養できると、十五代に報告できました。
虫干しがおわり、なおらいは盛り上がった。ビールを飲みながらも資料の検討をしている。


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