私の釈迦塚と浅野家の歴史についての考え方


歴史というのはどうもその記録した時期の価値観から多くの資料が間違って書かれたり、意図的に削除、改ざんされることが多くあります。そして、不幸なことに、その価値観がまた変わってしまいます。過去においては隠さねばならなかったことが、現在では誇れることすらありますし、当然その逆だってあるわけです。ところが、一度、事実を捻じ曲げてしまうと、もうどうしようもない。そして、間違ったことが一人歩きしてしまいます。現在の都合のいい英雄や偉人だけが将来もそうあり続けるとはかぎりません。その意味で言えば、歴史は公式的には紀伝体で書くべきものなのでしょうが、天武天皇が作成させた「日本紀」(当時の日本では紀伝体で完全に書くことが出来なかったので、編年体と紀伝体のまざりで書いてあるわけですから、紀伝体へのあこがれたために後に書記というへんてこな名前になったわけでしょう。)ですら、やはり意図的な改ざんや削除を多く感じます。特に壬申の乱の当事者である天武天皇にとって都合の悪い部分が削除されていることもありますが。そもそも「日本紀」はなぜ書かれる必要があったのか。「国譲り」や多くの神話時代の物語や欠史八代などについても疑問を持つ多くの研究者もおります。さらに万世一系の思想が近年まで天皇家についての客観的研究を遅らせたという研究者も多いのです。同時代の関係者が歴史として書き綴るむずかしさを、感じます。したがって、中国のように歴史は次の王朝が前の王朝を書くというのが正しいのではないかとも思います。
私は個人的にはその一族が欲する人物像のみが語られるのではなく、そうでない人々も語られるべきであろうと思います。
現時点で私の知っている中で、浅野家の歴史で完全に黙殺された人がおります。約300年前に新発田藩のなかで中之口村の庄屋で大竹与茂七というものが中心となって騒動をおこしたことが知られています。いわゆる与茂七騒動です。ここではそれに加担した多くの農民が処刑されています。釈迦塚村名主の倅で久之助もその一人であったと伝えられております。勿論そのような名前の者は浅野家の系図にのっているわけはありません。浅野家の系図も代々にわたり何度も書き写されていったのですし、その時、都合の悪いものは削除されていったと考えられます。私は寺本から浅野になったいきさつについても、明智氏に属し、山崎の合戦でその当主が戦死したことにより、豊臣氏をおそれ、寺本氏の一部は僧になったり、また紀州浅野家にひろわれたり、全国を流浪し浅野を名のらざるを得なかったと考えております。そして、浅野家の系図や資料では意識的に取り扱いを少なくしているように思います。これは、宝塔寺の寺本氏の資料により推察が出来ると思います。明智氏が主人殺しの謀反人だというレッテルをはられたのは江戸時代の儒教精神がそうさせたのであって、戦国当時においてはしごく当然であったことは、明々白々な事実です。

私は今回のCD—ROM作成を一族の方々に提供させていただきましたが、そのおかげで、今まで、全く、存じ上げなかった方々からもご連絡をいただきました。これは、ひとえに、皆様に取りまして、浅野家の歴史というものを知ることが、大切であったかの証明でもあります。また、全く予測してなかったことですが、今回のCD—ROMの配布によって、皆様がさらに浅野家についての興味を増されたのではないかとすら思います。
浅原さんによる越天庵と歌麿のつながりの発見は大きなトピックであったわけです。浅原さんは、十五代が大切に保存されていた多くの、それ以外の短冊などの写真をとられて、現在研究中との連絡を頂戴いたしておりますが、写真とて、たとえネガであろうと写真であろうと、先ほどの歴史と時間の陳腐化の原則からは免れるものではありません。また、浅原さんの興味は江戸の文化史としてであり、私ども浅野一族のそれとは、根本的に異なっているでしょう。私たちは祖先の狂歌の内容や文化もさることながら短冊それ自体ですら、また文字の筆づかいそれ自身に先祖と浅野の一族を感ずるであろうと思います。そして、本物に(文化的価値を除いても、)触ったり見たり出来ないほど、浅野家の一族の方々は、全国にちらばっていますし、今後、その傾向はますます促進されるでしょう。
また、一族の方々の中で、資料や残しておきたい物や原稿、写真、などのうち、公開(一族のみ、またはホームページに掲載の可否)、また、時を経てからの公開を可能とするもの、なぞの分類に分けて、ございましたら、ご連絡くださるようにお願い申し上げます。
写真などの資料は全て、デジタル化が終わった時点で返送させていただいております。時間的には一ヶ月以内です。私も現役のシステム屋で浅野家のことについての作業は今のところ代休をあてているので、返却までに一ヶ月くらいをご容赦ください。現在発表を出来ない資料も多くあります。勿論、それらは私が集めたものばかりではありません。いずれ、許可の時期を待っての公開も予定されているものもあります。

最後に、私は、もっとも興味をもっておりますのが、帰農した二五人の家臣の「その後」です。浅野は三条城を上杉の残党から守ったように浅野家には伝わっておりますが、新発田藩の公式文書では浅野家の家臣が戦死したことと、そこで戦った人々の名前が列記されておりますが、かれらの主人である浅野の名前はありません。浅野家の歴史のどこかで都合よく変えられた可能性が高いと思います。寺本家の五輪卒塔婆を発見した御茶ノ水女子大の理学部数学科教授の真島秀行氏の祖父は釈迦塚を出て、北海道にわたり、教授の代で上京されたのだそうです。多くの、明治以後の浅野家の一族の写真を撮った和田写真館の和田球氏の親も釈迦塚を飛び出した一人ですし、新潟市古町の佐藤絵葉書やさんも同様です。これらの方々は全て明治初頭に釈迦塚と縁を切っています。浅野家の九代浅野儀右衛門は歌麿や大田蜀山人、鹿都部真顔などとの付き合いもあり、江戸で何年も過ごした人です、また第十代は江戸から長崎の出島まで行き、ちょんまげ姿の写真をとってきています。そのことが、和田球さんの先代に影響し写真術を会得させたのだと、私は思います。しかし、大切なのは、そのような豪胆かつ優雅なことが出来たのは浅野家の当主だけだったわけで、伏見深草から九州、加賀と渡り歩き苦楽をともにした家臣の子孫の誰一人とて、そのような暮らし方ができなかったわけです。私は浅野家のことをしらべるにつけ、そのことがとても気がかりなのです。
私一人でこのような一族の歴史を作成できるとはまったく思っておりませんし、正しい歴史なぞもかけるはずもありません。どれが正しいかどうかはさておいて、不利なことも残しておこうとしています。ただ、発表するかどうかはべつの問題です。私は十三代の虎三郎氏だけでなく、十四代やその次の世代については、さらにその次の世代が自分の父や母や兄弟たちについて記録を残してもいいのではないかと考えております。一世代か二世代まえの人々についての歴史を書くというこれらの作業につきましては自由参加です。私は十五代の父である十四代については実はすごく子供の頃にお会いした記憶がありますが、多くを知りません。それらを残し続けたから釈迦塚と浅野家の歴史が当事者だけでなく意味があったし、あり続けていくのではないでしょうか。