| 釈迦塚歴史考  (新規)釈迦塚歴史考ブログサイト(2008/08/17) |
新潟県中央に位置する釈迦塚村の歴史研究
伏見深草極楽寺城より譜代の家臣である村人との
500年に及ぶ数奇な歴史を画像、映像を駆使した
古文書講座を含む多くの資料で探求する地方歴史ロマン
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最近の出来事 (1)東北大学大学院の高橋章則先生が興しになりました。内容は越天庵の狂歌の宗匠鹿津部真顔の位牌の件です。なぜ宗匠鹿津部真顔の位牌がこの地にあるのかについてのお話をうかがいました。11月の学会では学会がびっくりするだろうとのことでした。この件につきましては後日まとめてアップロードいたします。(2009/08/17) (2)10月11日に早稲田大学大学院の村山吉廣教授がお見えになります。安積艮斎撰文『誠斎記』の「解題」「原文」「訓読」「口語訳」をしていただきました。先生の論文につきましても掲載の許可がいただけたら、このサイトで公開させていただく予定です。(2009/09/29) (3)早稲田大学の村山先生は安積艮斎撰文『誠斎記だけでなく釈迦塚淺野家文書の内、一点だけ無関係と思われた「延喜天暦間釋奠図巻」についての解読に協力をいただき、あらためてその重要性を認識するにいたった過程と解説を淡路久雄氏の見附郷土誌第18号(2010年2月)に投稿されました。その全部を掲載します。(2010/02/11) 緊急告知:「釈迦塚の歴史」が出版されました。ここをクリックすると紹介のページにジャンプします。ぜひ、ご購入の上熟読していただければ幸いです。
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由緒書:浅野次五右衛門書(延宝二(1674)年八月)
慶長三戊戌年加州より御当城へ 御入部の砌御供仕同五庚子三月越後国不穏候間御領内中之島郷は新発田城より程遠要害の地に付大新田さかいへ隠密に罷出の御もくろみ有之同年六月正八郎儀手の者召連為押同所へ出張被仰付候処会津にて上杉景勝謀叛により越後残居候浪人並百姓共相催にて同年七月下旬より国中一揆致蜂起候に付大面中之島の百姓共より人質為差出手配堅固に申付置右注進のため大津勝右衛門河村勘兵衛など追々しはた差上同八月一揆共三条の城巻責候に付御太祖様後詰被遊候砌正八郎儀馳加り大崎並一ノ木戸にて相働き候御事
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浅野家九代儀右衛門は、庵号を越天庵、雅号を雪人または白翁といい、活花・和歌・狂歌で世に知られている人でした。その儀右衛門について咋年十月、東京の国際浮世絵学会会員の淺原氏から電話がきました、釈迦塚に越天庵雪人という人がいなかったか、ということでした。居たと答えると、越天庵は狂歌の判者(審査するひと)で、国会図書館にそれを証明する資料もあるという、逆に越天庵のことを教えられました。次の話が唐突でした、浮世絵師の喜多川歌麿が釈迦壕に行った筈だ、聞いたことがないかとのことでした。答えようがありませんでした。十月になって、釈迦堂の本尊の御厨子を修理に出しであったのが直ってきたので仏様を収めようとした時、見慣れない位牌があるのに気がつきました。挨を払ってみると江戸の狂歌の宗匠鹿津部真顔の位牌でした。 (淡路久雄氏) 十代浅野正八郎藤原政悳(左写真)は当時まれにみるインテリであり、行動力も精神力ずば抜けていたと思っている人物です。彼は幕末に長崎で西洋医術を学び、この地で開業しました。その後数台にわたり浅野が医者になった先鞭でありました。彼の「坂井砦蹟碑御撰文願草稿」には浅野と家臣の歴史について詳しく記されておりますし、十代は村の文献を数多く編集し残しております。
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