尼子十勇士へのアプローチ

2001年2月25日 浅野和夫


尼子氏の富田城をかかえる島根県能義郡広瀬町のホームページのリンクには尼子氏についての記述がありますので、以下のメールを出して回答を郵便にていただきました。

メールののあて先:hirose@web-sanin.co.jp
メールの内容
私は浅野和夫と申します。初代浅野は400年前に新発田藩主と共に島津成敗の後、加賀から新潟県に移り住んだ者です。それ以前は寺本と名乗っていたのは系図からわかっておりましたが、それを探ることが出来ませんでしたが、3年前にようやく、寺本氏の今は無縁仏となっている墓と菩提寺を発見できました。1月26日から4日間、京都に滞在して調べましたら、寺本氏は尼子十勇士の一人と菩提寺文献にありましたので、調べてみたいと思いましてご連絡いたしました。以下の3点についての文献がございましたらお聞かせください。
1.尼子十勇士とはそもそもどのようなかたがたなのか
2.寺本生死介の略歴はどのように伝えられているのか
3.その他尼子氏と寺元生死介に関する文献や伝承
お忙しいと思いますがよろしくお願い申し上げます。発見した寺本氏の五輪塔の前での写真を添付します。
 浅野和夫
     

頂戴した丁重なご返事の手紙の内容

前略
ご質問の件についてお答えいたします。
1。の質問については、当地の郷土史家・妹尾豊三郎(故人)著「尼子盛衰人物記」のなかで十勇士について書かれていますので、このコピーを同封いたします。
2。の質問については、当地では生死介に関わる事等は何も伝わっていません。よって、3の質問についても同様です。
今年度より尼子氏に関係した史料(古文書等)の調査を始めています。約1500点以上の尼子氏関係史料を確認をしていますが、寺本生死介に関するものは無いようです。しかし、今後の調査で何か解かれぱと考えています。確認をしていませんが、十勇士の尤道理之介の過去帳が奈良県の高野山にあると、聞いています。山中、秋上、潰道、深田については古文書にありますが、その他の人物については謎が多いようです。
広瀬町立歴史民俗資料館
金子義明

以下添付された 妹尾豊三郎(故人)著「尼子盛衰人物記」より抜粋

尼子十勇士
尼子十勇士というのは常山紀談(湯浅常山著)
に出ているのが最初であるが、明治末期から大正初期にかけて流行したポケット立川文庫に取りあげられてから広く知られるようになり・昭和二十六年版の大百科辞典にも取りあげられている。燃しこの三本とも名前は必ずしも一致せず・同じ十勇士でも登場人物が固定している真田十勇士とは聊か趣を異にしている・これは何故か・それを考える前に三本に出ている尼子十勇士の名前を比較対照して見よう。
一、常山紀談
山中鹿之介.井筒女之介・川岸柳之介・破骨障子之介.五月早苗之介.早川帖之介・上田稲葉之介・尤道理之介・藪原茨之介.阿波鳴戸之介
一、立川文庫
山中鹿之助.秋宅庵之助・横道兵庫之助・寺元生死之助・皐月早苗之助.早川鮎之助・大谷古猪之助・高橋渡之助・藪中茨之助.荒波碇之助
一、大百科辞典
山中鹿之介.秋宅庵之介・横道兵庫之介・寺本生死之介.植田早稲之介.早川鮎之介・深田泥之介.尤道道理之介・藪中茨之助・小倉鼠之介
石三著を勘案し、現在残っているこの地方の姓と、確実に雲陽軍実記や、陰徳太平記に出
て来る名前を取りあげて、広瀬少年剣士会がまとめた十勇士は次の通りである。
一、広瀬少年剣士会
山中鹿介・秋上庵介・横道兵庫介・寺本生死介・植田早苗介・小倉鼠介.早川鮎介・藪中荊介・深田泥介・大谷古猪介
十勇士の姓で現在残っている姓は、山中・秋上・寺本・早川.大谷・高橋・深田・植田・小倉などである。
立川文庫が「尼子十勇士」としてこれを取りあげたのは史実というよりも寧ろ講談本として興味本位のもので、一人々々の名前を見ても自然界の事物を語呂合せのようにうまく取り組み、これを人間の姓名として表現している。そこがまた当時の少年たちの興味をそそったのだと思われる。それならば何がヒントでそういう思い付きをしたのか。それは言うまでもなく十勇士の筆頭に山中鹿介幸盛という如何にも印象的な名前をもつ実在の勇士がいたからである。
立川文庫によると鹿之助(正しくは鹿介)の父は相木守之助(これも木や森の連想から作りあげた名であろう)母は更科姫といって子供の頃は信州の山の中で鹿と遊びながら成長したので山中鹿之助と名のったという振り出しになっている。十勇士の筆頭で然も実在の人物がすでにそうなのだから、続く面々もすべてそれに似たような語呂合せでなけれぱ講談にはならない。よって上記のような名前を作りあげたと思われる。もともと作りあげた名前だから眞田十勇士のように固定してはおらず、語呂合せの名が次々と生れ出たものと思われる。だからと言ってこれは一笑に付すべきことでもない。事実当時の尼子摩下には山中鹿介幸盛・秋上伊織介入家・横道兵庫外政光の如き実在の人々がいて、尼子の名を高からしめていたからである。大永四年経久の時因幡へ進入した「大永くずれ」や、天文十三年二月晴久が石見に於て毛利を破った「府野くずれ」等相手の心胆を寒からしめた戦も少くなく、ただ山中鹿介の豪勇ぷりだけでなく、尼子摩下の豪勇は近隣に鳴り響いていたに違いない。この背景がやがて尼子十勇士として後世まで語りつがれるようになったのである。
十勇士のうち山中鹿介や横道兵庫介は別項で触れたので秋上庵介その他を補足しておこう。秋上庵介久家(伊織介ともある)は大庭大宮(神魂神社)の大宮司秋上三郎左衛門綱平の子で、永禄十二年六月勝久出雲進入の時父と共に真先にこれに参加したが、元亀二年五月頃清水寺の大宝坊が毛利に降参した時、毛利の将野村信濃守士悦は大宝坊と斡旋して秋上綱平並びに久家を毛利に降参させた。この降参の事情を考えて見ると、久家は尼子に属してから常に忠勤に励んでいたが幸盛・久綱等が勝久から信任を受けているのに比べ、自分がそれ程でもないので日頃から快く思わず、遂に勝久に背くに至ったといわれている。
事実元就が出雲に進入した時、久家は多久和城を守っていたが、ろくに防戦もしない内に敗走し、また月山を守備していた天野隆重の謀計にかかり七曲りで敗戦する等の不面目が重ったので自然幸盛ほどには重用されず、遂に野村信濃守士悦の斡旋を好機に毛利に降参したものと思われる。
一方毛利方においては秋上父子の降伏は尼子氏再興上多大の影響を及ぼすので、輝元は元亀二年五月十六日、元春・隆景に書状を認め、秋上父子の降服を祝し、猶この機を逸せず、秋上父子をして尼子氏の諸将に降服をすすめるよう警告した。然し久家は毛利への降参を決意した時、わざわざ幸盛を訪ね「父綱平の仔細によって毛利に降参するに至った」由を幸盛に告げ、幸盛もまた快く諒承しているので、久家が尼子を撹乱した形跡はなく尼子十勇士の一人に加えられている面目は一応保たれているのである。
元亀元年六月三日、尼子軍は毛利の将志道左馬介が立て竈っていた佐陀の勝間城を攻撃した。(勝間城は加賀・洗合・真山・平田に通ずる要衝だったからである)これは尼子軍の敗北となり、三刀屋蔵人・上田(植田)早苗介等が討死したことが陰徳太平記に出ているので、植田早苗介という人物のいたことも諒承出来る。以上の様に十勇士の名前が登場して来るのは、尼子の全盛時代であった経久の頃よりは寧ろ尼子復興戦が二年ニケ月にわたり郷国出雲で展開されていた時期こそ尼子十勇士の活躍舞台であった事が想像される。この事は尼子哀史にとってまさに画龍点晴的な意味を与えるもので、もし尼子哀史に十年に亘る復興戦の実践がなかったら、尼子の滅亡はありふれた弱肉強食の一例として忘れ去られたかもわからない。然るに十年に亘る尼子復興戦は日本史(世界史もまた同様)の中でも類例のない事実として存在し、然も十年の間、この団結は大所高所から見て崩れることはなかった。この強靱な団結による戦闘力の具体的な変形として尼子十勇士が作りあげられたと考えても決して無理ではない。そしてその根源は何処までも山中鹿介という実在の人物であり、そしてまた特異と思われる程のその姓名から発生した十勇士面々の名前であり、又十勇士というのは尼子武士の結束を表わした別の表記でさえあったと思われるのである。
尼子家五老臣
一、大原上佐世金剛山城主、佐瀬伊豆守正勝同清宗トモ
ニ、飯石民谷、宇山飛弾守久信
三、秋鹿下大野、津森四郎二郎、津森入道ノ子
四、仁多作埼、川副美作守源常重
五、力石氏十リ、尼子ノ譜代ト相見ユ、居所・名所等未明

妹尾豊三郎氏の尼子十勇士についての考察は十分に興味をそそられます。もし氏が寺本氏略譜をご存知であったらどのように書かれたかはわかりませんが、史実と「こうあれば」の間に歴史があるのかもしれません。寺本氏略譜に記されている一文の真偽は別にしろ、その背景を知って見たいと考えた私にはその結論を出すに十分な資料を持ち合わせておりません。2001年2月23日に再度、深草にでかけました。そこで例の喫茶店に立ち寄ったところ、以前もお会いしたご婦人から深草郷についての郷土歴史家が書かれた本があるとの事で、近日中に贈ってくださるとの事であります。そこで、どのような記述があるか楽しみにしています。寺本氏と寺本甚兵衛の深草瓦については出てくることは間違いないと思いますが。

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