寺本氏を知るための基礎知識
大雲寺相方寺本氏略譜の解説
2001年2月:文責 浅野和夫
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大雲寺相方寺本氏略譜
寺本氏は、深草土豪四家「赤塚・寺内・薮・寺本」之一にして、
世々足利氏末まで隆盛なり。
一度山崎に明智氏に属し、豊臣氏に向鉾して、終に隠棲蟄居。
藝の浅野候に仕、子孫嗣継を全す。
大雲直勝両院開祖實家たるの故を以て茲に写録す。
寺本氏は深草の土豪(赤塚、寺内、藪、寺本)のひとつで足利氏の最後までさかえていた。しかし、山崎の合戦で明智光秀に加担し豊臣氏に手向かいしたため蟄居した。藝州の浅野候に仕え子孫嗣継を全した。大雲院、直勝院の開祖の実家であるのでこの文を写し記録しておく
孫兵衛
深草郷領主。織田氏に属し天正三年、六条河原、戦死。(1576)
深草領主であり織田氏のもと天正三年六条河原で戦死する。この人物が浅野家系図に現れる直勝出はないかと類推する
吉太夫
深草郷領主。明智光秀に属し天正十年、於山崎、戦死。(1583)
深草郷領主であったが明智光秀に従い山崎の合戦で戦死する。(孫兵衛の子供)
内蔵允
深草郷の内、極楽寺村領主。兄吉太夫城西山崎戦の後、豊臣氏盛威を
懼れ隠世蟄居、藤八入道と云う。天正十年当時藤八、年八歳也。
寛永五年、為冥福壽搭を宝搭寺境域の傍□に建、以祖先追悼を□表す。
浅野候に任仕。
深草郷の内極楽寺村の領主であったが、兄の吉太夫が山崎合戦で明智に荷担し戦死したのち、豊臣氏を懼れて隠世蟄居し籐八入道となった。天正10年籐八は八歳であった。寛永5年に宝塔寺の境域に生前の内に先祖の追悼のために墓をたてた。浅野候につかえた。(孫兵衛の子供で吉太夫の弟)
日隨
父隠棲の後、褒搭寺、日銀上人の室に入、得度師禮を重ね、松井友干氏
請い依て搭中西大坊に入る。「今の大雲」
又地域を割て隠棲す。
是を直勝院と云、「今の直勝」□開基。
父が世俗を離れた後、宝塔寺の日銀上人に直属の弟子となり得度し禮をかさね松井友干氏のはからいにより搭中西大坊に入る。今の大雲寺でそこを分割して隠居する場所としてここを直勝院という。今の直勝寺の開基である。(内蔵允の子供)
覚佐ヱ門
紀州浅野候に仕□を藝州に隨従。子孫栄昌。
紀州の浅野候に仕え藝州(安芸:広島県)に一緒に随従してその後子孫はさかえ(日随の子供)
日騰
伯父日隨徒弟、西大坊を住持し、自ら法号大雲院を以て寺号と為す。
伯父の日随の弟子となり、西大坊の住職となり自らの法号が大雲院なのでそれを寺の名前とする(覚佐ェ門の子供)
(艸山褒搭寺誌より)
寺本内藏允忠吉壽搭 大五輪形
墓域東西十四間、南北八間
識本院学翁宗心居士
寛永五戊辰季九月初三
注記:浅野和夫(2001年2月)
略譜と浅野の系図との比較(直勝について)
搭文に云
夫塔廟者毘廬遮那之尊形,方円満之惣躰也。
故願主刻彫之,擬于覚果矣。然則依斯功勲,提妙
法之智釼,拂無明之怨敵,破生死之嶮域,請涅槃
之嚴都。乃至法界倶蒙于利潤耳。石塔建立主城
州深草住人亡父寺本孫兵衛,捨命於六条合戦
挙名於京城田舎矣。則先領極楽寺郷,從六歳至
十一歳也。示後遣于明智日向守等,仕今安備両
国太守焉。寺本内藏允忠吉道修也。
眞浄院玄幽日栄居士 藝州廣嶋士
宝永八辛卯二月五日七十歳
以下 友人:近藤氏訳
ソレ搭廟ハ《毘廬遮那》ノ尊形ニシテ、《方円満》ノ《惣躰》ナリ。
モトノ願主コレヲ刻彫シ、《覚果》ニ擬ス。
シカラバスナワチ、ソノ功勲ニヨリテ、妙法ノ《智釼》ヲタズサエ、無明ノ怨敵ヲ
ハライ、生死ノ嶮域ヲヤブリ、涅槃ノイマシメヲ請ウ。
スナワチ法界トトモニ、利潤ヲコウムルニイタル。
石塔建立ノ主、(デアル)《城州》深草住人ノ亡父「寺本孫兵衛」、六条ノ合戦ニテ
命ヲステ、《京城》ノ田舎ニ名ヲアゲル。
スナハチ、サキニ極楽寺郷ヲ領シ、六歳ヨリ十一歳ニイタル。
シサレテ後、明智日向守等ニヤラレ、今ハ《安備》両国ノ太守ニツカウ。
寺本内藏允忠吉道修ナリ。
眞浄院玄幽日栄居士 藝州廣嶋士
宝永八辛卯二月五日七十歳
《{ルビ:毘廬遮那|びるしゃな}{註:大日如来の意}》
《方円満》{註:方は正しいの意}
《{ルビ:惣躰|そうたい}{註:総体}》
《覚果{註:仏教用語か?}》
《{ルビ:京城|けいじょう}{註:都の意}》
《{ルビ:智釼|ちけん}{註:釼は剣の異字体}》
《{ルビ:城州|じょうしゅう}{註:山城国}》
《安備》{註:安芸国と備後国}
寺本覚佐ヱ門
(艸山褒搭寺誌より)
寺本□内藏允(武人)
尼子十勇士の一族
寺本覚佐ヱ門(同)
(法華名家掃苔録75頁)
右墓地袖主 明治十八年四月
滋賀群粟津村第百五十三番地
士族 寺本 百治
(墓籍簿より)
尼子十勇士について
五輪塔(五輪卒都婆)
卒都婆の一つ。平安中期頃密教で創始された塔形で、石などで五つの部分につくったもの。方・円・三角・半月・団の五つの形を造り、それを、それぞれ地・水・火・風・空の五輪(五大)にあて、下から積みあげた形のもの。多くはその表面に五大の種子(しゅじ)、すなわち梵字を刻む。鎌倉期以後は各宗でも用い、堂宇の落成、仏像の開眼などの供養塔婆とし、また、碑ともした。五輪塔。

毘盧遮那如来(「びるしゃな」は梵Vairocanaの音訳。盧舎那、遮那、遍照、光明遍照などと訳す)華厳経および梵網経の教主。法身また報身の仏とされるが、諸宗によって理解を異にする。
宝塔寺
縁起は藤原氏の極楽寺にさかのぼる。徳治二年(1307)日蓮の法孫日像は,京都布教中に洛外へ追放された。その時,真言寺(向日市)で,時の極楽寺住持良桂と三日三晩の宗論を行い,良桂は屈服した。極楽寺を法華道場に改め,日像を開山に仰ぎ,自らは二世になった。日像は京都妙顕寺で没する(康永元年 1342)が遺言により,ここで荼毘にされた。また,日蓮,日朗の遺骨も納められているので,西身延,巽の霊山とも呼ばれている。天正十八年(1590)妙顕寺日尭の弟子日銀は八世をつぎ,荒廃した諸堂の再建に着手。 本堂(重文)は,京都大仏殿建立の余材が,寄進され,慶長十三年(1608)落成した。この時,寺名は鶴林院常寂寺から,深草山宝塔寺に改められた。仁王門は宝永8年(1711)創建で,向かって右の仁王が密迹(みっしゃく)金剛,左が那羅延(ならえん)金剛である。本堂北側の参道を上ると七面社を通って,深草墓園に至る眺望の良いハイキングコースである。本堂は今大解体修理中で,全体をシートで覆ってあり,中は見られない。
宝塔寺多宝塔 年代:室町時代初期、.1439を下らず 国指定重要文化財
山崎合戦
一五八二年(天正十)六月 京都府乙訓郡大山崎町 豊臣秀吉:明智光秀
備中高松城から姫路に急行した秀吉は、将兵を二日間ここで休め、六月九日、浅野長政を姫路城に残し、京都を目指して進撃を開始し、十一日には摂津尼崎へ進出、ここに信長の旧臣有岡城主の池田恒興、堀秀政、高山重友、中川清秀らの諸将が馳せ参じた。十二日夜には総兵四万余を率いて摂津富田に野営を張り、諸将の各部署を決めた。翌日信長の三男信孝と信長の重臣丹羽長秀が秀吉と会見した。
明智光秀は、本能寺で信長を討った後、五日には安土城を占領、また秀吉の本拠長浜城、丹羽長秀の本拠佐和山城などを攻略、また近隣の諸将に対して書状を出し応援を求めていた。しかし、光秀のために集まってきたのは小者ばかりで、光秀の女婿織田信澄はすでに織田信孝の手によって殺されており、また組下の大和郡山城主筒井順慶は天下の形勢を傍観しているばかりで態度をはっきりせず、最も頼みとしていた女婿の細川幽斎・忠興父子も、光秀の勧誘を断った。光秀は、自らが毛利に対して発した密書が秀吉の手に落ちていることを知らず、秀吉の中国からの進撃を知りおおいに驚き、十日に京都を発し、山崎八幡山の東、洞ヶ峠に陣した。しかし、翌日わずかに一万六千余人を率いて下鳥羽に本陣を移し、山崎(山城と摂津の境にあり、淀川を隔てて東南に男山を控え、北に天王山を臨む西国街道の要衝)の北にある勝竜寺城を前線拠点に定めた。
このような状況の中、六月十三日未明、山崎の合戦の火蓋が切って落とされた。まず両軍は、宝寺という要害を占領しようとする。これは光秀と秀吉の本陣のほぼ中間にあり、これを占領するかしないかが合戦の勝敗の大きく関与してくるからである。この時如水はその山麓を固めていたが、秀吉の先鋒宮脇長門守と共についにこれを占領。かくして両軍は総攻撃に移り、光秀軍は奮戦するもその力は尽き、勝竜寺城に退却する。秀吉はこれを追撃して四方から攻めかけた。この時如水は秀吉に進言して、「明智一命を捨て防かんと存候とも、付従ふ士卒ハ此大軍に囲まれ、数千のかがり火に気を屈しなば、必逃去んと思ふ心出来候へし。今夜一方の攻め口をあけ候ハゞ、士卒大半落失申へし」(『新訂黒田家譜』)と言い、秀吉はこの進言を容れ、北の攻め口を開けた。すると案の定その夜に城中の士卒の大半は城を出奔し、光秀はここにも籠城できず、同夜半、光秀を含む一向五、六人は彼の本拠近江坂本城を目指し、密かに城を出て伏見山を過ぎ、小栗栖まで来たところを、落ち武者狩りの農民によって殺された。なお、勝竜寺城は十四日に開城し、また同日、高山・中川隊は光秀の居城丹波亀山城を落とした。
尼子十勇士戻る
構 成
山中鹿之介・安宅庵介・横道兵庫介・早川鮎介・尤道理之介・寺本生死介・植田早苗介・深田泥介・藪中荊介・小倉鼠介
由 来
尼子氏といえば山陰を中心に因幡・伯耆・出雲・石見・隠岐・播磨・美作・備前・備中・備後・安芸と、その最盛期には11ヶ国を支配下に納めた大々名であった。その尼子氏も時の流れとともに没落。 永禄十一年(1568)、毛利氏によって攻めこまれ戦国大名としての尼子氏の歴史は終わった。 だが、これを潔しとせず尼子の遺臣達は尼子の名君経久の血を引く勝久を奉じ、尼子の再興をかけて立ち上がった。 そのとき山中鹿之介を中心に集まった十人をたたえて尼子十勇士と呼ぶ。十人みな介の字がつく為、「尼子十介」ともいう